何かを忘れてきた――
唐突に,彼はそう思った.別に,さっき訪れた道具屋に,自分の荷物を置き忘れたというわけでもない.ただなんとなく,そう思っただだけである.何時,何処で,誰が,何を,何故,どの様に,忘れてきたのか,そんな事は結局,何一つ分かりはしないのだ.
「まあ,ね.時にはそんな事を思う事があるかもしれないさ.僕だってね」
誰もいない部屋.あまり広いとはいえないが,それでも片付いてはいる.照明は天井から吊り下げられたランプだけなので薄暗いといえば薄暗いが,それでも本は読める程度だろう.他は,なんに使うのだかよく分からない道具たち.基本的に魔法使いが使うものばかりだから,それらの道具を一般人が理解する事はありえない.
「基本的に,魔法使いの杖は,そんなに頑丈じゃない」
誰もいない部屋.あまり広くないし,片付いているから,誰かが隠れようと思ってもそうそう隠れる場所などありはしない.だから,この部屋には,声を発している魔法使いの少年を除いて,誰もいない.
「例えば――」
――突然,キン! と高い音が部屋に響いた.金属がぶつかった音.部屋にいる人間の数が増えていた.大振りのナイフを少年の頭上から振り下ろしている男.先ほどからずっと部屋にいる,杖を自分の額あたりに掲げて,振り下ろされたナイフを受けとめている少年.
「――こんな風に使うには,どう考えても向いてない」
ナイフを振り下ろしている男は,ずっとこの部屋にいたのか? それとも,突然入ってきたのか.いや,この部屋に通じる唯一の扉は開いていないし,しばらく開いた形跡もない.だが少年は,そんなことには全く無頓着で,説明的な台詞を続けた.
「魔法使いの杖は,あくまで魔法を使うための補助道具だから.ナイフなんかでちょっとこすってみれば,すぐに傷が付いてしまって気分が悪い」
ナイフを振り下ろしている男は,身動きをしない.
少年が説明的な口調なのは,もしかしたら職業的な癖かもしれなかった.魔法使いは基本的に魔法を売ることにより生活しているが,大抵一般人は魔法使いの事情を知らないので,依頼を受ける時に説明する事が多くなるのだ.
「まあ,別に,ちょこっと傷が付いたくらいで,役に立たなくなるわけでもないけどね.それにしても,最近は魔法使いでない方々も,この杖が魔法使いにとってどれほど重要か,理解してくれていたと思ったけど?」
「……だから,実際には杖ではなく,杖に纏わりつかせた防壁魔法で受けとめた――そうだな?」
動きはない.ただ口のみが小さく動いた.少し低めの声.口の動きは小さかったし,声も大きくはなかったが,それでもその言葉ははっきりと少年に認識できた.
「そうだよ.よく分かったね.もしかして御同業? それともお客様?」
男おそらく,魔法使いではない.黒ずくめの服装ではあっても,それは魔法使いを証明するローブではなかったし,それになにより杖を持っていなかったからだ.偽装するために杖もローブもわざと隠す事があるから,可能性の否定はしきれないが.だが杖がなければ大した魔法は使えないのだから,例え魔法使いでも一般人とさほど変わりはない.
「……この場合は,客だと言わねば解放してもらえぬのか?」
男の声に,少年は軽快に笑った.
「で,僕に何の用?」
少年はそう尋ねた.あまり広くない部屋の真ん中あたりに置かれた机を挟んで,先ほど突然現れた黒ずくめの男が座っている.
「客じゃない」
先ほど喋った時と同じく,低くてあまり大きくない声だった.ただ少し疲れ気味かもしれない.
「さっき客だって言ったじゃないか」
責めていると言うよりは,単純に面白がっている少年の声.男が客と言うまで束縛魔法で男の自由を奪っていたのは他ならぬこの少年なのだから,もともと客でない事は分かっているのだ.
「……ま.別に分かってるけどね.でも,君はきっと客になる.君は魔法使いを探してる.そうでしょ」
「おぬしのような子供に用はない」
「だったら,はじめっから刃物持って来ないでよ.なんなのさ,その大振りのナイフは.まさかそれ持って料理しに来たわけでもないんでしょ」
沈黙.少年の冗談についてこられなかったのか.男は黙ったままだ.
「……ま.別にナイフのことはどうでもいいけど.魔法使いを探してるんでしょ? しかも,君のナイフの餌食になるような魔法使いならおよびでない.このくらいの攻撃ならいとも簡単に受けとめて見せるだけの実力の魔法使いが必要だったってわけだね.それじゃ,僕は合格だ」
また沈黙.
「……分かった.冗談は止めるよ.君は僕を殺しに来た」
「……そうだ」
「でもなんで? どっかのお偉いさんかなあ.僕は最近はおとなしくしてるはずだけど」
しばらく間があった後,男は口を開いた.
「……仇だと聞いた」
「仇,ねぇ.でも,僕はあんまり人殺しは引き受けないよ.やむをえない時も何度かあったけどさ……もしかしたら,そんな時の一人かもしれないね.誰かな.ううん,その前に,君は誰だい?」
少年は尋ねたものの,男は反応しなかった.まだ殺そうと隙を狙っているのか.それとも答えるかどうか迷っているのか.
しかし,そんな男に痺れを切らして,少年は杖を振り上げた.ふっ,と,男の黒ずくめのフードが落ちる.中からは無表情で真っ青な髪の青年が現れた.特徴的なのはその髪の色だけで,他はどこにでもいそうな男だった.いや,ただ単に薄暗いせいで特徴がつかめないだけかもしれない.
「青の髪……ザーヴィア人かい? それにしても,青髪は見慣れないなあ……」
男の表情が明かに変わった.驚愕.フードを取られたことに気付かなかったのか.
「うーん.さすがにここまで青って言う真っ青な青だと不気味……あっ,ごめんごめん.えっと……そうそう.さすがに僕もザーヴィア人に仇って言われるような記憶はないよ.うん」
男の表情はまた無表情戻った.何も言わない.
「別にね.始めて見るわけでもないけど.いろんな場所に行くからね.でも,この国の中で見たのは始めてだし.これまでの仕事でも,見かけ」
「妹だ」
「たのは数回……え?」
突然,喋っている途中で男が口を開いた.少年は思わず言葉を止めて聞き返してしまったが,ちゃんと聞き取ってはいた――妹.
「妹の仇だ」
……が,男は,聞き返されたことに対して真面目に答えていた.
「おまえが妹の仇だと聞いた.俺の村の唯一の占い師だ.俺はそれを信じるしかなかった」
淡々と,男はここに来た経緯を語り始めた.
「おいっ,あいつまた居やがるぜ!」
いつものように飛んで来る野次.そして,小石.そのうちの幾つかが,実際にクレアに当たった.別に,彼女が悪いわけではない.要するに,いじめというものだ.それより大きくも小さくもない.
「おいっ,なんか言って見ろよ! 髪の毛から色が抜けちまって,口もきけねえのかよ!」
飛び交う罵詈雑言.子供と言うのは,こういう言葉に限って,ぽんぽんと口からついて出てくるものらしい.
「何をする! お前ら,それでもザーヴィア族か!!」
そこへ割って入ったのは,スタンリーだった.
「お兄ちゃん……」
小さく呟いて兄の背を見守るクレア.罵詈雑言はまだ止まらない.
「なんだよっ! お前こそザーヴィア族かよ! 妹の髪,真っ白のくせに!」
「何を!!」
スタンリーは飛んできた小石を拾い上げ,投げ返した.一人の顔面に直撃する.しばらく投げ合いが続いたが,てんでバラバラに投げているいじめっ子達と,抜群のコントロールを誇るスタンリーでは,始めのうちは数に押されるものの,着実に一人ずつ減らしていくスタンリーがいずれ有利になる.それはいつもの事で,今日も繰り返された.
「おいっ,あんまり近くにいると白菌が移るぜ」
「そうだな.おい,みんな! もうあの井戸は使うなよ,白菌が入っちまったからな!」
また,そうやって散っていくのも,いつもの事だった.
「クレア.水汲みは俺がやるって言ったじゃないか」
「だって.今日は私が料理当番だもの……」
スタンリーはため息をついた.結局,どれもこれも,いつもの事だ.両親を早くに無くしてしまったために……そしてなによりも,クレアがザーヴィア族の証である青い髪を持って生まれなかったがために.
「いつもの事だった.俺達はそうやって暮らしていた.俺はそれでも良かった.どんなに言われても,少なくとも大人達は中立だった.料理も,全部ふたりで交代でやった.洗濯も,掃除も,生活に必要なものは全部.それで良かった.俺はそれでも良かった.仕方ないと思ってた.でも,クレアは……クレアは」
男――スタンリー――は,言葉を詰めてしまった.そっけない喋り方ではあったが,それは今までの無表情とは対照的に,強く感情を顕にしていた.
「それで?」
少年は続きを促した.
「……5年だ.5年も前だ.クレアが,突然いなくなった」
促されて,スタンリーは次の言葉をしぼりだした.
「俺は随分探した.族長のところへも行った.だが,族長は,クレアは確かにザーヴィア族を両親に持つ,だから証を持たずとも追い出しはしないが,勝手に出て行く事に関しては感知しない,と」
それからしばらく,スタンリーの話は続いた.何年もクレアを探しまわった事についてずっと.そして彼は,クレアさえ見つかれば,どこか人のいないところでひっそりと暮らせれば良かったと語った.ザーヴィア族としての生活は捨てても良いと.
「その時だ.クレアの話を聞いた.急いで俺はその村へ向かった.今度こそ,クレアを見つける事が出来ると思ってた.だが」
男の言葉がまた切れる.少年は先を促したりはせず,スタンリーが自分から口を開くのを待った.しばらくの後,スタンリーは感情を押さえこんで言葉を繋げた.
「俺が見つけたのはクレアの遺体だけだった」
その後は,1度ザーヴィア族の村――名をジスティムティという――に戻って,占い師を尋ね,そしてここへ来るまでの経緯が簡潔に話された.少年はなるほどと頷いた.
「分かった.じゃあ,まずジスティムティへ行こうか」
突然の少年の言葉に,スタンリーは不信感をあらわにした.
「……何故だ?」
「そりゃ,真相を確かめなくちゃね.そうじゃなきゃ,話が始まらないじゃないか」
その時,部屋の唯一の扉がノックされ,女の子の声が聞こえてきた.
「おとうさん?」
「ん?」
少年が返事をすると同時に扉が開いて,4歳くらいだろうか,長い銀髪の女の子が顔を出した.
「あれえ? お客さん? リー,見なかったよ?」
「ああ,いいんだ,リー.ちょっと特別なお客さんでね.これから出かけるから,準備しておいで」
「うん」
リーは素直に頷くと,また扉の向こうへ顔を隠した.
「……おぬしの娘か?」
少年の歳と,リーの歳を想像して不審に思ったのだろう.スタンリーが尋ねた.
「そうだよ」
「……おぬし,一体何歳だ?」
「多分,大人になる2歩手前さ」
「……18か?」
聞き返されて,少年は怪訝な顔をした.
「違う.16だよ,多分」
「子供ではないか!」
突然声が大きくなったスタンリーに対して,少年は肩をすくめた.
「……そう言わないでくれよ.悪かったね,子供で.ザーヴィア族はどうか知らないけど,僕らは18で大人なんだよ.後2年じゃないか,それくらい大目に見てくれよ」
スタンリーは今だ納得がいかないようだったが,諦めたようで質問を変えた.
「……なら,あの子――リーと言ったか,あの子は幾つなんだ?」
「知らないよ.見た感じ4歳くらいじゃない?」
「自分の娘ではないのか!」
「だから,娘だって言ってるだろ」
「自分の娘の歳も数えていないのか?」
「そんな事言うなよ.娘どころか,自分の歳だって数えちゃいないよ,僕は」
「なら何故知っている?」
「だから,多分,だよ」
スタンリーは呆れ返ったようで,しばらく口を開かなかった.が,突然気が付いた様に,また声を大きくして言った.
「……12の時の子供か!?」
「そういう事になるんじゃないかな」
「……母親は一体どんな人だ?」
「知らないよ」
「知らぬ事があるか!!」
……ついに呆れるのを通り越して怒り始めたらしい.スタンリーは立ち上がり,机を叩いて怒鳴った.
少年は飛びあがって耳を塞ぎ,落ちついてくれと懇願した.
「頼むよ,ホントに.あの子は確かに僕の血を分けた娘だよ.だけど母親も歳も知らない.それだけさ,もう突っ込まないでほしいな」
少年に困った顔で言われ,仕方なくスタンリーは諦めて座った.
そこへ,スタンリーの怒鳴り声を聞きつけたらしいリー本人が現れた.
「……ねえ,どしたの?」
「何でもないよ,リー.仕度は済んだのかい?」
「……ううん.まだ……」
リーは首を振った.それに合わせて長い銀髪が揺れる.
「なら,準備しておいで.まだ少しお客さんと話があるからね」
「……うん……」
なんだか自分の話をされていたようなのに,何も話してもらえず納得しない様子だったが,少年に言われてまたリーは出ていった.
「……本当に行くのか.ジスティムティまで」
「行くって言ったろ」
「大人の足でもかなりかかるぞ.あの子は置いていくんだろうな」
「いいや.連れてくよ.置いて行こうったって無理な話さ.勝手についてくるだろ」
「付き合ってられるか! 人に過去の話までさせておいて.いい加減にしろ!!」
スタンリーは,1度しまった大振りのナイフを振り上げ,少年へ向かって振り下ろした.
「わっ! わっ! そりゃないよっ!」
少年は慌ててナイフを避けた.立て続けに繰り出されるナイフを避けながら,またも落ちついてくれと懇願する.
「怖いなあ,全く.途中までなら馬車も使えるでしょ.それに――」
と,その時,リーがまた扉をあけて入ってきた.
「それほど急ぐ事もないだろうしね.
さ,リー.仕度はできたかい」
「うん.はい!」
そう言って,リーは手荷物を差し出した.少年はそれを受け取って,扉から外に出た.
「さ,行こうか」
笑顔でスタンリーを促す少年に対して,彼は不機嫌そうな顔で,待て,と一言言った.
「おぬし,名は,何と言うのだ?」
少年は笑顔のまま答えた.
「エド,って呼んでよ」
全く,一体どこへ行ったんだ,あいつは?
スタンリーは1人毒づいて,隣で何やら杖を振っている銀髪の少女――リーを見やった.あいつ――エドと呼んでくれと言った少年は,彼の家を出るや否や,何かを思い出した様にリーとスタンリーの二人を置いてどこかへ去ってしまった.彼は追いかけようかと思ったのだが,隣にいるリーに引きとめられて,仕方なく少年の家の中へ戻ったのだ.
全く――何者なんだ,あいつは? 第1印象は妙に大人っぽかった気がするが,自分を束縛魔法から解放したあたりからやたら子供じみていたような気がする.かと思えば,隣にいる銀髪の少女は娘だと言う.掴み所がない.大体,自分はあの少年の言葉を聞く必要などどこにもないのに,結局こうやってあいつの言葉を素直に聞いて待っているのだ.分からない.自分はこれからどうなるのだろう? ……いや,どうするのだろう?
「おい.お嬢ちゃん――」
ふと,隣にいる少女に声をかけて,彼は言い様のない違和感を感じた.なにかがおかしい……お嬢ちゃん? 今まで自分はそんな言葉を使った事があっただろうか.ない.妹クレアの事は,ずっとクレアと呼んでいた.嬢ちゃんと呼べるような年下の少女は,居たかもしれないが,クレアと半ば「離れ」で生活していた彼は,そんな風に誰かを呼ぶ機会などなかったのだ.
「――いや.リーと言ったか」
リーは杖を振るのを止め,スタンリーを見上げた.自分がなぜ呼ばれたのか測りかねたらしく,小首を傾げた.しばらくして名前を確認されたのだと認識すると,彼女はスタンリーに向かって微笑んだ.実際にはスタンリーが名前確認のために呼んだのかどうかはわからないのだが.
「うん.リーね,リーって言うの.えっと,えっとね……うんと……」
自分の名前まではよかったが,結局スタンリーをどう呼んでいいのかわからず黙り込んでしまった.スタンリーの方は苦笑して,名乗る.
「俺はスタンリーだ」
……が,リーはそれを一体どの様に解釈したのか,いまいち理解していないような顔で聞き返してきた.
「なんて呼べばいいの?」
が,聞き返されて今度はスタンリーの方が困った.
なんて呼べばいい? なんて呼ばれればいいんだろう.一体自分は何と呼ばれていた?
クレアにはたしかお兄ちゃんと呼ばれていた.ずっとそうだった.クレア以外にはスタンリーと.後は――何も記憶になかった.一番慣れた呼ばれ方を答え様かと思ったが,それでは自分があの少年の息子という事になってしまう.彼は,自分がリーにお兄ちゃんと呼ばれ,少年がお父さんと呼ばれる様を思って苦笑した.
やめだ.やめだやめだやめだ.似合わないどころか,あからさまに滑稽だ!
「スタンリー,と.そう呼んでくれ」
結局,彼はそうやって答えていた.それ以外にどうやって答えてよいのかわからなかっただけだが.
「うん.分かったよ.スタンリー,ね」
嬉しそうに応じるリー.
「ねえ,スタンリー」
……リーは本気でそうやって呼んできた.違和感.不思議だった.自分が,小さな女の子に名前だけで呼ばれるとは――.しかし,自分で言ったのだ.今更変えるわけにもいくまい.それに,変えようにも,他に呼ばれ方を思いつかないのだ.リーの言葉はそのまま続いた.
「どして,おとうさんのところに来たの?」
……殺しに来た.危うくそう答えそうになって,とどまった.殺しに来た? なんて事を! こんな子に,父親を殺しにきたなどと言えるものか.この歳で親はどんな存在なのか,この歳で親を亡くせばどうなるのか――彼は,よくわかっていた.
しばらくどう答えようか黙っていると,リーが諦めた様に呟いた.
「……ふぅん.また秘密のお仕事なんだ,おとうさん……」
そしてまた,杖を振る作業――なのかどうか――に戻る.
リーはどこか寂しそうだった.これまでにも,何度も仕事の内容を教えて貰えなかった事があるのだろう.彼は魔法使いの仕事がどんなものかなど理解していなかったが,それでもなんとなく,この子には言えないような仕事もあるのだろう,と思った.
「ねえ,お兄さんっ.今度はどこへ?」
アクセサリやら何やらを売っている屋台のおかみさんに声を掛けられ,少年は振り向いた.そういえば,さっき道具屋から帰る時にも声を掛けられたのだった.
「ああ.今度はちょっと遠くへ行くんだ.だからその準備の買い物にね.いや,丁度良かった」
そう言って立ち止まると,少年は一つのアクセサリを取った.ネックレス.銀色の鎖の先に,小さな幾何学模様をかたどったオブジェが付いているもの.どこにでもありそうなものではあったが,そのネックレスの本当の価値は,その材質と幾何学模様の魔法的な意味にあった.材質は銀.そして風の第2第3第6の呪文に同時に適合するように作られた立体構造.少年が値段を聞くと白金貨1枚だと答えたから,売っているほうはその真価を認めていないようだった.
少年が言い値でい買い取ろうとすると,おかみさんはそれを止めた.
「兄さん,魔法使いでしょ? 何かやってよ.それでそれ,譲るからさ」
「何かって?」
少年は意味を汲み取ったのかそうでないのか,いたずらっぽく聞き返した.
「ほら,あの,何でもいいんだよ.光の魔法で竜を作ったりとかさ,花火みたいなのとか.何でもいいんだ,広場でみんなに見えるようにやってくれないか」
実際には光の魔法などと言うものはなかったが,恐らく前の魔法使いがやったであろうことはすぐに想像がついた.水と風の魔法で上手く水滴を光に対して配置したのだろう.虹を作る要領だ.だとすれば,その魔法使いはとてつもない実力の持ち主だと言える.そんなもので竜をかたどれるのなら,もしかすると本当に竜と会ったことがあるのかもしれない.そんなことは,簡単に出来ることではないのだ.
「何で?」
また少年が聞き返すと,おかみさんは耳に口を寄せて小声で言った.
「あたしが頼んだってことにすれば,人気者になれるんだよ.あたしが」
少年は苦笑して,人気者になれるのは僕じゃないんだね,と一言言ってから,広場の真ん中に立った.魔法使いの証である杖を掲げてから小さくお辞儀をすると,周りから声が聞こえてきた.
「おい,またなんかやるらしいぜ!」
「今度はどこの誰だ?」
「あ,あたしあのおにいちゃん知ってる!」
周りの視線が集まると彼はもう一度お辞儀をする.すると辺りは一気に静まり返った.少年の杖は不思議な軌跡を描きながら踊り,跳ね,飛ぶ.彼の周りには幾つもの美しい光の蝶が舞い,やがて蝶に囲まれて巨大な竜が姿を表す.竜は巨大な羽根を広げて羽ばたき,周りの蝶を吹き飛ばした.風を狂わせ,聴衆の髪や裾をばたばたとはためかせ,そして竜は大空へと飛び立っていった.竜が去ると,また蝶が少年の周りを舞い始めた.蝶の数は少しずつ増し,いつしか表れた光り輝く花畑を飛び移る.そして中央にいる少年の姿さえ見えなくなり――
全てが一瞬にして,消えた.
中央にいたはずの少年すら,姿が見えない.あたりは全く静かで,一言も発する者はおらず,そしてわずかの音を立てる物も無かった.
「おばちゃん.これ,ありがたく貰っておくよ」
「ぎゃっ!!」
突然聞こえた少年の声にアクセサリー屋のおかみさんはたまげて腰を抜かし,地面に座り込んだ.おかみさんの悲鳴に触発されたのか,見ていた者全てが盛大な拍手を送りはじめたが,当の少年は,その時既に先の角を曲がって姿を消してしまっていた.拍手は,姿の見えぬ少年に,止むことなく送り続けられた.
パフォーマンスとして水や風の魔法を駆使して光のオブジェを作り上げることは,上級魔法使いの特権となっている.それは極端に難しいことで,彼らはそれで研究費や生活費を賄う事も多い.それが出来る者が少なければ少ないほど,希少価値が生まれるものである.だが,その作り上げたオブジェクトを動かして見せることは,不可能とされてきた.ずっと.しかも,周りどこから見ても欠損なくオブジェを作り上げるなど,到底人のできる技ではなかった.そう思われてきた.だが彼はそれをいとも簡単にやって見せたのである.ネックレスの対価の白金貨1枚よりも,いや,あのネックレスの本当の価値よりも遥かに高いものを,彼は,払っていったのである.
「ただいま」
「あ,おかえり,おとうさん!」
しばらくすると,少年が戻ってきた.リーが少年を明るい声で迎えると,少年はさきほど手に入れたネックレスを取り出し,リーの首に掛けてやった.
「ほら,リー.大切にするんだよ」
「わぁ.ありがとう,おとうさん」
ネックレスを手に取って喜んでいるリーと,それを嬉しそうに見ている少年を見て,スタンリーはだんだん腹が立ってきた.こいつは――
「そんなものを買ってくる為に俺を待たせたのか!」
「わっ」
少年は驚いてみせ,リーは不思議そうにスタンリーを見返した.
「どしたの,スタンリー?」
「あ,いや」
リーに言われて,スタンリーは言葉を詰めた.待たされたことに対して腹は立ったが,少年にとってのリーが,自分にとってのクレアだったとしたら.ふとそう思って,簡単に責められなくなってしまったのである.
「そんなものって言って欲しくなかったよ,スタンリー」
続いてそんな少年の言葉が,小さくスタンリーの耳に届いた.それはスタンリーを責める風ではなかったけれど,逆に,彼はそれに違和感を感じていた.
「さあ,それじゃ,行こうか」
いつもの,つかみ所のない少年の声がした.
「リー,家の中は大丈夫?」
「うん」
「よし.じゃ,行こうスタンリー」
「行こうって,家はほったらかしで良いのか?」
施錠をした様子もなく歩き始めたので不審に思って尋ねると,少年は簡単に言ってみせた.
「大丈夫さ.中にあるものの価値が分かる奴は,入れないから」
一体どういう意味だろうかと不審に思ったものの,本人が良いといっているのだから良いのだろう.別に少年の家に何が起ころうとも,自分には一切関係ないのだから.
「逆に,まあ,施錠はしない方が安全だよ.僕の場合は周りに管理してもらえるしね」
「どういう意味だ?」
「言葉どおりだよ」
尋ねたはいいが,所詮はそんな答えばかりだった.まだ会ってほんのわずかしか経っていないけれど,もう彼には少年のそんな答えが予想できてしまっていた.村の占い師も曖昧なことを言うことが多かったから,もしかしたら,魔法を行使する者の特徴なのかもしれなかった.
リーが飛び跳ねながら少年よりも先に進む.長い銀髪に地に付きそうなほど長く白いローブ.そして,少年のものよりもいくばくか短い魔法使いの杖.当然ながら見比べてみれば装飾が全然違うのだが,二人とも持ち歩いている状態で見分けをつけられるのは長さくらいしかなかった.
リーの後ろをゆったりとした感じで歩く少年.だけどみかけで感じるよりもかなり歩調は速い.うなじあたりでまとめた長い黒髪に,やはり地に付きそうなほど長く白いローブ.そして,魔法使いの杖.二人は,服装に関しては大きさ以外になんら違うところは無いだろうと思われた.
と,なんとなく二人を観察していたら遅れをとってしまったスタンリーは,少しばかり早足で少年に追いついた.
「馬車を使うつもりと言ったか」
「うん.僕はともかく,リーが途中で倒れちゃうだろうし」
それに対して,スタンリーはぼそりと呟いた.
「……俺はお前も心配だぞ」
その瞬間,少年は足を止めた.ローブの裾を捲くって自分の足を見た後,苦笑して言った.
「確かに頼りない足だよね」
再び歩き始める少年.
「だったら尚更馬車でも使わなくっちゃ」
足を止めた隙にすっかり先へ行ってしまったリーは,……なにやら虫と格闘しているようだった.
「しかしあの調子では,馬車に乗る前に倒れてしまうのではないのか」
少年は,かもしれないね,と言って苦笑した.
「ねぇ,おとうさん,これに乗るの?」
「ああ,そうだ」
目の前には馬車.屋根付のいいやつだ.
「本気でこれに乗るのか?」
スタンリーが呟く.
「ん? 何か問題でも?」
「……俺は金を持ってないぞ」
ただ単に,こんなにいい馬車に乗ったことが無いというだけの話だった.リーは嬉しそうにちょこちょこと飛び乗り,少年がその後に続く.直接目的地まで馬車は行かないにしろ,かなりの距離走るはずだ.自分は今まで多少なりと稼ぎながら歩いてきたわけで,安いものならともかくこんな豪勢な馬車に乗れるほどの持ち合わせなど無い.
スタンリーが躊躇していると,少年から早く乗れとの催促がかかった.
「なにやってんのスタンリー.僕ら魔法使いだよ」
……途中で魔法でも使って目を晦まして逃げるつもりでもあるのだろうか.ええいどうにでもなれ.俺は知らないからな.スタンリーが諦めて乗り込むと,馬車は走り出した.
上質のクッション.屋根付.貸切.窓には硝子.贅沢としか言いようが無い馬車に乗せられ,スタンリーは落ち着けずにいた.魔法使いとはかくも贅沢できるものなのか.彼らは確かに大きな収入を得るものの,それは結局研究費や魔法の掛かった道具,その維持費,諸々のためとにかくすぐに消えていってしまうと聞いていた.この年端もいかぬ少年がそんな大金を持っているとはとても思えなかった.それともリーだろうか? まさか.この子供どころか幼児と言ってもまだ通じそうな少女に,それはあるまい.
リーは窓ガラスに手をついて,流れる景色を眺めていた.時々指を指しては声をあげ,何事か少年に話す.そのうち少年はリーを抱き上げて自分のひざに降ろし,自分も一緒に外を眺め始めた.平和.まさに平和としか言いようがなかった.自分も反対側の窓に目をやって,なんとなく流れる風景を眺めていた.
――ふと.スタンリーの頬をひんやりしたものが掠めていき,彼は反射的に身構えた.何事かと振り返ると,どうやらリーが窓を開けたらしかった.外から風が入り込んで,リーの長い銀髪を掻き乱す.それは不思議と幻想的な光景に見えた.ひんやりした風は少々肌寒くもあったが,別に不快というわけでもなかった.
「何身構えてんのさ」
いつの間にかリーを下ろしてスタンリーのすぐ傍にいた少年に声を掛けられ,改めて自分が身構えていることを認識して――あたりに何も身構えるべき対象が無いことを確認すると,彼は力を抜いた.
「折角いい馬車使ってるんだからさぁ.そんなに身構えてなくても」
「いや.風に驚いただけだ.それよりエド.こんな馬車を借り切って,金は大丈夫なのか.乗る前に確認したが俺は金の持ち合わせは無いぞ」
「あれ?」
少年は不思議そうな顔をした.
「スタンリー,魔法使いって知らない?」
何か馬鹿にされているような気がして,少し腹が立った.
「馬鹿なことを言うな.知っている.だが魔法使いは収入と同時に支出も多いと聞いたぞ.何か収入の直後だったのか」
少年は呆れて答えた.
「ああもうっ.僕らは魔法使いだよ? 馬車くらいは杖1本でかなり安くなるもんさ.それに上級魔法使いの杖ともなれば,それだけで大抵の馬車は無条件.まあもっとも,僕らはそれじゃ悪いからって,大抵何かしていくけどね.車輪や手綱の補強とか,薬の調合とか.そもそもこの馬車だって何人か魔法使いが乗ってるみたいだよ.窓硝子には補強魔法がかかってるし,屋根には簡単な水除けが施されてるし」
「そうだったのか」
なるほど道理で,こんな高級馬車にも平気で乗って見せるわけか.上級魔法使いの杖にそれほどの価値があるとは――
「――おいエド.ところで上級魔法使とかいうが,そういうお前はどうなんだ」
聞くと,少年は心不満そうな顔をした.
「あのさー,スタンリー.この杖が見えないわけ? 僕を馬鹿にしてるの?」
「馬鹿にしてるも何も,杖の見分けなどつかぬ」
少年は少し黙ってから口を開いた.
「魔法使いってのは.一応,階級ってもんがある.第5級から第1級まで.占い師とかまじないし,魔術師なんかと呼ばれる人々はまた魔法使いとは別.魔法使いと魔術師を同時に兼ねている人がいないわけではないだろうけど.あと,大抵は2級以上の魔法使いを上級魔法使いと呼ぶ.数は大分少ないから,会えればかなりの幸運と思っていいかもしれない」
「……で? 俺はその幸運とやらか」
「ああもうっ.今君の隣に座ってる子供が上級魔法使いで,ある程度までの身の安全の保証があってさらに馬車代をたかれるっていう意味ならそうだよっ」
呆れているのか腹を立てているのか――いや両方だろうが,そんな声でまくしたてると少年はまたリーの方へ寄っていった.悪いことをしたなとは思ったが,到底あの子供が上級魔法使いなどとは信じるにも信じられないことだったし,そもそも杖の見分け方など知らなかったのだから仕方ない.
だがとりあえず,自分は馬車代の心配をしなくていいのだと分かると,現金だなとは思ったがやはり疲れていたのだろう,いつの間にか馬車に揺られながら眠ってしまっていた.
――ガタン.
突然馬車が揺れて,彼は目を覚ました.どれくらい眠っていたのか? 馬車の向きが分からないから太陽光も時刻の参考にならない.ただほんの僅かの時間まどろんだだけのような気もするし,それなりな時間眠ってしまっていたような気もする.
隣に居るはずの魔法使いたちをみやると,先ほどと大分位置が変わっていた.少年は反対側の窓際に居たし,リーに到っては少年の腕の中で気持ち良さそうにすやすやと眠っていた.それはそうだろう.馬車に乗るまでも随分はしゃいでいた.乗ってからもしばらく外の景色に釘付けになっていたようだったし,それなりに疲れていたに違いない.
「……おはよう.スタンリー」
目が醒めたスタンリーに気がついたか,少年がそんなことを言ってくる.
「ああ……いや.俺はどれだけ眠っていた?」
「さあ.僕も寝てたしわかんないよ.だけど,外を見るとどうやらいつの間にかドランチェは抜けたみたいだね」
「ドランチェ……? ああ,ドランチェと発音するのか.ダランチだとずっと思っていた」
「……ん.あ,そうか.ダランチ.ごめん僕変な訛りがあるかもしれない」
「なんだ,エド――お前は,ダランチ,の,人間ではないのか?」
どちらの発音を使うべきか,多少迷った.が,どちらであれとにかく少年は実際そこに住んでいたのだから,てっきりそこの人間だと思っていたのだ.違ったのだろうか.
「あ,いや――」
少年は少し黙った.
「……別に,好きで住んでるわけじゃない」
「そうか」
やっぱり,こいつはよく分からない.上級魔法使いともあろう者が,何故好きでもない場所に住んでいるのか.いや,上級魔法使いだとしたら,もしかしたら,ダランチのお抱え魔法使いか.可能性はあるが,どうもそういう雰囲気では無い気がする.ただなんとなくそんな気がするだけで,否定する材料があるわけでもないのだが.
少年はリーの白く長い髪を優しく撫でている.スタンリーの位置からでは,少女の顔は見えない.そしてその少女の顔を優しく見守る少年――
――父親?
父親,なのだろうか.本当に?
「――可愛いだろ?」
それは唐突に.リーを眺めているのに,気付いたのだろうか.少年は顔も上げずにそう言ってきた.同意を求められているのか,単に呟いただけなのか,よく分からなかったが.
「まあ,確かに.可愛いのかもしれないな」
そうやって答えた.
「はは……」
少年が顔を上げた.
「やっぱさ.僕がリーを可愛いと思うのは.自分の娘だから,かな.それとも,小さい子ってのは,得てして可愛いもんだろうか.いやむしろ,可愛いと思ったからこそ僕はリーを ――なっ!?」
突如息を呑む少年.その為中途で止まる少年の声.さっと冷えたように感じる周りの空気.不穏な雰囲気.次の瞬間.
「警報っ!!」
少年が叫んだかと思えば突然少年は姿を消した.
「一体何が――」
そして,すやすやと気持ち良さそうに寝ていたはずのリーは,いつの間にかスタンリーの隣に立ち,杖を構えている.屋根はあったが彼女の背では届かないらしい.
「……リー?」
なにが起きたのか.それとも何かが起こるのか.彼はそんな中,ふと小さな風を感じた.その風はリーの髪の先をわずかに揺らしているようだった.この子は魔法使い.魔法を,使う,の,か?
「おい――」
――次の瞬間.スタンリーはリーの体当たりを受けて外に飛び出していた.リーのどこにそんな力があったのか.いや,それこそ魔法を使った,のかもしれなかった.
まだ走り続ける馬車から,二人は外へ飛び出す.自分が今,どうなっているのか分からない.何を考えることもできず,スタンリーは反射的にリーを庇い,地面に叩きつけられることを覚悟,なんてする暇があったのかどうか.
だが地面は訪れず,バキ――と何か氷結したような音がしたかと思うと,二人は,衝撃も無くただただ真っ白で,もしリーが大人だったら窮屈であっただろう楕円形の空間に閉じ込められていた.
寒くて暗かった……
足がどこかに縛り付けられていてそこから動くことが出来なかった.
しばらくは泣き叫んでいたいが今ではそんな気力も体力もない.自分の力で状況を打破できるほど,少女は賢くあれなかった.かれこれ3日目.ただこの状況では彼女自身がそれに自覚的であったわけではない.音も無いただの暗闇では,時間感覚は完全に麻痺する.精神にも異常をきたしはじめる.ずっと水すらも与えられていない.ただ思考することですら重労働だ.
もっとも.産まれて僅か数年しか生きていない幼子がこの状況に置かれてどれほどのことを考えられるのかは,甚だ疑問ではあったが.
既に意識がはっきりしているはずもなかったし,何を考えられるわけでもなかったし,そもそも,健全であったとしてもその歳ではこのことを覚えていることはあるまい.ただ恐怖が残るだけだ.恐怖だけが.
だが幸運なことに――いや,不幸なことであったかもしれないが.
その場所に一筋の光が差し込んだ.
「女の子? なんでこんなところに」
誰かが入ってきた.男だ.いや,むしろ男の子.白きローブと手には杖.魔法使いか.
少女の足首には枷がかかっている.完全な放心状態.目は開いていても,それが何かを見ているとは限らなかった.暗くて分かりにくかったが,少女は白かった.不健康なまでに白かったし,実際今は健康ではないだろう.
だがそういう意味のみではない.少し汚れてはいたが,髪も白かった.肌も白かった.白という色を持っているというよりも,むしろそれ以外の色を持たないが故に白く見えるのだろう.その証拠に,虚ろに開いた瞳は――血色を呈していた.
男の子は少女の傍に寄って杖を振って少女の足の枷を外した.魔法なる力.素質の違いはあれ,誰だって訓練をすれば身につけられるものだ.この男の子が特別に行使するものではない.
「……」
衰弱.衰弱していた.少女はあまりにも衰弱しすぎていた.ただ,まだ息がある.そのことに,感謝せよ.少女を助けたかったのであれば.
「可愛そうに……」
男の子は少女を優しく抱き上げた.
「名前は?」
返事は無い.当然か.
「嫌だね.親の都合で色んな目にあうのはさ.はは」
既に意識がはっきりしているはずもなかったし,何を考えられるわけでもなかったし,そもそも,健全であったとしてもその歳ではこのことを覚えていることはあるまい.
「まあ,得てしてそんなもんだけどね」
ただ恐怖が残るだけだ.
「親だってその親がいたわけだしさ」
恐怖だけが.
「警報っ!!」
少年の声が聞こえると同時にリーは跳ね起きた.既に条件反射.杖を構え,状況を判断――今は揺れる馬車の中.
だが,ふと薄暗い記憶が蘇る.ただ怖かった,それだけの記憶.さっきまで夢でも見ていただろうか.それはいつのことだったのか.夢かどうかも曖昧としていて,ただ少年からの警報が届いたことに対して,無意識的にこの先のことを怖がっているだけなのかもしれなかった――
そこで慌ててリーは思考を叩き落した.自分は魔法使い.上位魔法使いより警報が届いた以上,直ちに現状に対応し,出来うる範囲で被害を最小限に抑える義務がある.しかし現状の把握が出来ない.馬車の中では周囲の状況は視認できず,また探査魔法を展開しようかと思い立つがそれをするには既に無意味な思考によって時間を浪費しすぎていた.やるべきことはただ一つ.どんなことにでも対応できるように防衛措置を施すこと.
対精神防御展開準備.対汎用魔法防御展開準備.対衝撃防御展開準備.対熱防御展開準備.攻性衝撃魔法展開準備.攻性冷却魔法展開準備――
ただ教科書通りの防衛手順をひたすら実行する.しすぎた時間の浪費は致命的だ.いつ何が起こるかわからず有効な手段が取れないのは今後の行動に支障をきたす.出来うる範囲で魔法の展開準備を行って,いつでも必要な魔法が瞬時に展開できなければならない.だが後手にしかまわれない.次に起こる事に対抗できる魔法の展開準備の優先順位が低かった時,展開準備が終わる前だったら当たり前のごとくそれは致命的だ.そして術者の実力的に,準備できる魔法数はおのずと限られてくる.
――!
何かが起こった.いや,起こると直感した.咄嗟にリーは衝撃魔法を隣にいたスタンリーに向けて展開し同時に自分も馬車の外へと飛び出した.次は――次は!? 次は何だ!? 無駄な魔法を展開している暇はない.無駄な思考をしている暇もない.ただ直感を信じて,リーは対精神防御魔法を展開していた.
が.それはすぐに何者かによって打ち抜かれた.驚く暇があったか? 対精神防御魔法を打ち抜かれ,一瞬にして準備魔法の殆どを叩き落された.残った二つの魔法が強制的に展開される.対衝撃防御と対熱防御.
して次の瞬間には,バキ――と何か氷結したような音がしたかと思うと,リーとスタンリーは,衝撃も無くただただ真っ白で,もしリーが大人だったら窮屈であっただろう楕円形の空間に閉じ込められていた.
「……氷?」
隣でスタンリーが呟いた.氷? 氷だ.自分たちの周りを囲んでいるものはただの氷だ.この楕円形の空間は,要するに強制的に展開された対熱防御が氷の進入を防いだということで,そして二人とも氷にからだを打ち付けても特に痛みがなかったのは,やはり強制的に展開された対衝撃防御のお陰だ.ということは……
――おとうさん?
先ほど対精神防御を打ち抜いたのは少年だったか.それならば納得がいく.リーの精神防御をやすやすと打ち抜き適切な処置を施したのであればそうとしか考えられない.感謝はしたが,同時にまだ自分が未熟であることを思い知る.もっとも,年齢的にいえばでここまで出来れば驚異的としかいいようがないのだが.
外で何が起こっているのか分からなかったが,とりあえずリーは探査魔法を展開しようとした.が,その前に周りの氷が急激に融け,外には横転した馬車と,難しい顔つきをした少年が見つかった.
「……場所を変えよう」
少し迷った後,少年はそう言った.
「で,これからどうするんだ」
馬車に乗っている間は気付かなかったが,道の脇はかなり深い森だったらしい.馬車の走っていた街道は山道だったのかもしれなかったが,ともあれ今はそんなことすら確認せず森の中に居た.事故だったのかなんなのか,いや氷の内部に閉じ込められるようなことがただの事故だったとは思えないのだが,ともあれ少年はどこでもいいから場所を変えろを言い張ってやまなかった.少年の言に従う義理はないと毎度ながら思ったのだが,少しも事態を把握できていない自分と比べれば,少しは事態を把握できているらしい少年の言に従う方がいくばくが安全だとは,判断したのだ.機嫌の悪さはきっぱりと口調から知れたが.なんせ場所を変えろと言い張る少年本人はその場所に残ったのだから,わけがわからない.わけがわからないと,腹が立つものだ.
「お父さんが戻ってくるまでの間,自分たちの安全の確保,だねぇ」
で,このリーという少女は外見に似合わず冷静な言動や行動をするから,さらにスタンリーの機嫌は悪化した.
「それはいいが,森の中では身動きが取れないのではないのか」
「うーん」
リーはしばし首をひねった.
「えっとね,木があるからぁ.それを起点にして防御結界と探査結界が張れる,かな?」
そう宣言するとリーはさっそくその作業にとりかかった,らしい.良くわからなかったが.
「……俺は何をするんだ?」
「えっと,薪集め,かなぁ?」
「……」
リーに尋ねるのは非常に癪ではあったが,この際仕方ないと腹をくくって尋ねると,予想通りというかんというか,悲惨な言葉が返ってきた.
薪集め.なるほど,悔しいが確かに火は重要だ.
「しかし魔法使いとやらが二人も居て薪が必要なのか.魔法使いもつくづく役に立たん」
「失礼だね.火種に困らないだけマシと思ってよ.何かを維持するっていうのは大変なんだよ?」
「!? エド,いつ――」
スタンリーが驚いて振り返ると,それなりに怒りの表情を浮かべた少年がいた.が,彼の言葉が中途で止まったのはそれのせいではなかった.少年の腕の中には,ぐったりとした御者が抱きかかえられていたのだ.そうだ,自分たちが乗っていた馬車のだ.なるほど少年が残ったのはそれが理由らしい.
「相手も魔法使いみたいだね.ちょっと間に合わなかったか」
なんて肩をすくめて見せる少年.スタンリーは少々慌てた.
「お,おい,エド,まさか――」
「ん? あ,ああ.いや.早とちりするなよ,生きてる.魔法使いが二人も居りゃそうそう人は殺させない.だけど困ったことに意識が戻らないんだ.呼吸もあるから大丈夫だとは思うんだけどね」
「そうか」
スタンリーはとりあえず一息ついた.
「で,そういうわけだからとりあえずよろしく.僕は馬車と馬の様子を見てくるよ」
「お,おいっ」
と,一息しかつけずスタンリーは御者を渡された.一体どうせよというのだ.だがそうこうするうちにも少年はまた街道の方へ戻っていく.
「んー,今夜の夕食は馬肉かなー」
「おいっ!?」
慌てて呼び止めようとしたが,御者を取り落としそうになってまた慌てて体勢を整えた.
「冗談だよ」
などと,少年の方は杖を軽く振って去っていく.そうこうしているうちに結局少年を止める機会を逸して,スタンリーは仕方なく御者を具合の良さそうな地面に横たえた.荷物の中から改めて毛布を取り出し御者を横たえ直すと,結局は薪を集めに出かけたのだった.
「誰か来た!」
スタンリーが薪集めから帰ってくると,リーが叫んだ.もしかして自分が探査魔法だかなんだかに引っかかってしまったのかと思って,自分であることを知らせようとしたそのとき,リーの第二声が飛んできた.
「お父さんじゃない.スタンリー,伏せて!」
反射的に,彼は薪を放り出して地面に伏せた.何かが頭の上を通り過ぎたようだ.どうやらリーは既にスタンリーの到着を知っていたらしい.背を向けていたにもかかわらずだ.ということは,いずれにせよ探査魔法だかなんだかにはひっかかっていたのかもしれない.
スタンリーはとりあえず身を起こすと周りを確認した.いつの間にか左隣にはリーが杖を構えていて,目の前には見知らぬ男が二人,片方は魔法使いなのか杖を持っているようだった.寝かせておいた御者はまだ目を覚まさないのか自分の後ろ,そして先ほど確かに何かが通り過ぎたと思ったのだが,後ろにはなにがあるわけでもなかった.
「だれ?」
杖をその見知らぬ男たちに向けて構えて警戒を緩めないままリーが尋ねる.
「おや,お嬢ちゃんひとりだけかい.そりゃあ好都合だ.一緒に来てもらおうか」
「嫌よ」
リーがきっぱり即答すると同時に,男二人が動いた.言うことをきかないのであれば力ずくで.単純だが,ある意味効果的だ.
突然,杖を持っていないほうの男が,何か金属の棒を持ってスタンリーの方へ打ちかかってきた.彼は反射的にそれを避けると,彼はその男に足払いをかけた.が,避けられる.仕方がないのでナイフを取り出すと,金属の棒の第二撃をそれで受け止めた.金属と金属がぶつかり合う高い音がする.
対して,リーの方は杖を構えた警戒態勢のまま動いていない.相手の魔法使いらしき男も同様だった.スタンリーには分からない何かがお互いに行われているのかもしれなかったが,少なくとも外見上に動きはなかった.
少しのつばぜり合いの後,相手の男はすっと後ろに引いたかと思うと,スタンリーが反応する間もなく,まだ目を覚まさない御者の首筋に棒をあてがった.ただの金属の棒かと思っていたそれは,先が見事に尖っていた.しまった,人質だ.
「やめて!」
声が聞こえて振り返ると,リーがその御者と,その生殺与奪を奪った男の方を向いて杖を構えていた.
「無駄な殺生はしたくない」
首筋に凶器を宛がった男が低い声で言う.
「一緒に来るんだ.さもなければ」
「やめなさい!」
男の声が終わる前にリーの鋭い声が飛んだ.
「やめなさい! 第三級魔法使いの命令よ,止めなさい!」
魔法使い権限.リーはそれを発動しようとしていた.下位魔法使いは上位魔法使いに逆らうことはできない.もっとも,そういう規則が世界的に存在するわけではない.魔法使いは等位でない限り圧倒的な力の差が出るため,争う意味がないというだけだ.位の低い方が一方的に負ける.だから,無駄な争いを避けるためにそのような暗黙の了解が魔法使いたちの中で出来ているのである.
リーの周りに,強い風が吹き始めた.魔力の余波による空気の移動だが,これはリーが今行使している,階級証明魔法に正式に含まれるものだ.続いて杖の先から光球が現れて,リー胸の前で静止した.光球の方も階級証明魔法の一部.単に純粋魔力が具現化したとき光を放つだけのものだが,今行われている証明魔法や,ただの光源としてよく使用される.
第五級は風を纏うだけでよい.魔法使いなら必ずできることだ.第四級は,それに加えて杖の先に光球を纏わりつかせる必要がある.魔力を上手く制御できなければ無理だ.さらに第三級では,杖を媒体にせず光球を中空に維持する必要がある.媒体が無くなった魔力は急激に制御が難しくなる.第二級はそれに二つの光球を追加し,さらにその光球を移動させなければならない.その軌跡によって等位でも差が現れてしまう部分だ.そして一級.その上に杖を手放し,それを中空で維持しなければならない.杖に直接触れていなくても杖の魔法式が使用できなければ無理である.
今リーがやってみせているのはそのうち三級証明だ.
「……三級かね? その歳でか?」
杖を持った男はそれなりに驚いてはいたようだ.だがすぐに杖を構えると,風を纏い,杖の先から三つの光球を放つとそれを飛ばした.そして光球は彼の周りをくるくると美しくまわり始める.つまり,二級証明.
「では第二級魔法使い命令により,その魔法使い命令を停止してもらおうか」
一瞬リーははっとしたようだったが,それでもまだ諦めていないようだった.風を維持し,中空に維持した光球をなんとか動かそうとしていた.二級証明が完成すればお互い等位になる.そうなれば,お互いに魔法使い命令を譲らない場合,争うことになりかねない.そもそも争いを避けるためのものなのになんと不毛なことか.しかも,例えここでリーが二級証明に成功したとしても,成り立ての二級ではほぼ勝ち目がないことははっきりしているのに.
それでも,リーが小さな体で懸命に風を維持し光球を操ろうとしている姿は,かっこいいというよりもむしろいじらしかった.風がばたばたと彼女の髪と裾をはためかせる.
だが,杖を持った男も,杖から手を離そうとしていた.
「……三級かね? その歳でか?」
男はかなり驚いていた.目の前の少女が一体何歳なのかは知らないが,そもそも魔法使いの杖を携えることすらまず難しいと思われる子供が,三級証明をしてみせているのだ.連れて来いとだけ言われた.確か親だか誰かが居るということでそちらは上級魔法使いだという話だったが,まさかその少女本人が三級魔法使いであるなどとは聞いていない.一人だけで好都合かと思ったが実際にはそうではなかったか.
相手が魔法使い権限で押さえ込んでくるつもりなら,こちらもそれに倣うとしようか.無駄に争っても時間を食うだけだし,それで収まるのならこちらとしても有利だ.
男は杖を構えると,風を纏って光球を放った.二級証明.
「では第二級魔法使い命令により,その魔法使い命令を停止してもらおうか」
相手が三級なら,二級で押さえ込める.そう思ってのことだった.しかし少女は諦めていないようだった.まさか,二級証明を完成させようとしている?
今回はどうやら驚くべきことが多すぎるようだ.この少女が二級に上がろうとしているとは.三級を押さえ込むには二級で十分だと考えていたが,それは甘いらしかった.仕方がないので,杖から手を離し,杖を宙に浮かせようとする.つまり一級証明を実行してしまえば,何も問題はなくなる.
「待ってよ.だったら第一級魔法使い命令により,その第二級命令を停止してもらうよっ!」
が,そのとき,声が聞こえてきた.はっとして振り返ると,そこにはまだ大した年齢でもないだろう少年が,杖を携えて立っていた.いつの間に.気付かなかった!
そして次の瞬間,その少年を中心に渦状の風が吹き荒れ,その風の中を自由に飛び回る光球が三つ.そして杖は――少年が胸のあたりで軽く開いた両の手の間に,静かにふわふわと浮いていた.
第一級証明.もしや,この子供が,少女の親とかいう奴か? は,馬鹿馬鹿しい.そんなはずはない.どう考えても目の前の少年は,少女のような歳の子供を持つような年齢ではない.
「待つがいい,少年よ.こちらも第一級に訂正させてもらうぞ!」
男はそう言うと,杖を手放した.杖がふわりふわりと中空に浮く.
少年は押し黙った.魔法使いは一級までだ.お互い譲らないのなら,争うことになる.もっとも,相手が譲るとは到底考えられない.何しろこちらは既に人質を取っているのだから.
先の少女はまだ三級証明を維持していた.額に汗が浮かぶのを見て取るに,どうやらかなり消耗しているようだ.三級を見たときには驚いたものだが,三級を維持するのにも苦労しているのでは二級に上がってはこれまい.やはりといったところか.
お互い一級証明を維持したまま動かない.少年はしばらく何か考えていたようだが,静かに口を開いた.
「何の張り合いをしてるのか良く分からないけど,状況を見るに人の命がかかってそうだね」
ちらり,と,倒れた御者の方に目をやる少年.
「譲るわけにいかないとなると.僕と争うかい? あまりやりたくないんだけど」
「そうだな.こちらとしても争わずに解決できるならそうしたいものだが」
男はそう答えた.結局のところ,少年の証明魔法を見るに,自分では到底敵いそうにない.同じ位だったとしても,やはり力の差は現れるのだ.しかし,争いに紛れて少女を連れ去ることくらいはできるかもしれない.
「僕も争いたくはないけど.まあ仕方ないよね」
少年はそう呟くと,左手を挙げた.それにつられるかのように杖が高く舞い上がる.
何をするつもりだ? とっさに男は身構えた.証明魔法を維持しつつも,幾つか防護魔法の展開準備をする.
少年の杖はある程度まで上がると静止し,その後回転を始めた.しばらくするとまたぴたりと停止し,そのまま重力に引かれて落ちてきた.ぱし,と,少年がそれを手に取った――
「な……!?」
違う!
少年の手にある杖の形が違う.先ほどまで持っていた杖は少女が持っているものと似て簡素で,木で出来た棒の先に魔力媒体となる宝石類がひとつ埋め込まれているだけのものだった.だが,今もっているものは全然違う.もっと派手に装飾が施され,魔力媒体となる宝石類が幾つも埋め込まれ,ところどころに鋭利な金属のようなものがぞいている.
「まさか……」
あれはまさか.物理攻撃としても突く,切る,叩く,投げる,など.そして魔法に関しても同時に複数の属性を扱えるようにと考え複数の魔力媒体を埋め込み,魔道式を複雑に組み込み,とにかく色んなことを一本で出来るようにと機能を追加したといわれる杖.魔法使いの中では伝説となりつつあったが,もしかして本物か?
「まさか,魔道士の杖……!?」
しかし,確かその杖はあまりにも色んな機能を追加しすぎて,個々の機能はそれほど役に立たなくなったのだと聞いた.ならば,何だ.一体なんなのだ.この威圧感は!
「うん,そうだ.多分,君の言う魔道士の杖だろうと思うよ.でもまあ,なんだか世間一般では誤解してる節があるから説明しとくよ」
少年が静かに告げる.それは事実であると.
「これは魔道士の杖のうち一本.多機能型の杖だ.一つの機能に執着せず,どんな場面にも対応できるように様々な機能を次々に追加していったもの.歴代の魔道士が少しずつ機能を追加し,また合成することで複雑さを削り,今はこんな姿だ」
派手に装飾されていながらも,確かにそれほどごつごつとした感じは受けない.機能の割には簡素に仕上がってはいるのかもしれない.いや,どれほどの機能が追加されているのかは知るよしもないが.
「そして,世の噂だと,あまりの多機能さに役に立たなくなったとかいう話だったけど……」
少年はくるりと杖を回転させた.
「全くもって失敬だね.確かに君らが使ったらそうだろうよ.でも,本物の魔道士が使ったらどうなるのか――」
そして杖を正面に構える.
「その目で確かめてみるかい!?」
――そうか,そうだったか.あの威圧感は,なるほど.
なんとはなしに,男は冷静だった.少年が杖を一直線に構え,こちらへと間合いを詰めてくる.
――なるほど.確かに杖だけで見たら全て中途半端なのかもしれない.だがそれを補う魔道士が使えばどうなるのか.
反射的に彼はその杖を避ける.だが杖は突然動きを転ずると,彼のわき腹を強打した.続いて彼の持つ杖を引っかき,ローブの裾を貫く.全て一瞬の出来事.
――物理攻撃でこれだけの威力を発揮するものが,もし魔法を使うために使用されたらどうなるのか.彼は,そんなものを自分の目で確かめてみる気には到底なれなかった.
「撤退!!」
一言叫ぶと,彼は一目散にその場から離れていった.
「撤退!!」
何が起こったのか良くわからなかった.ただ強風があたりを支配して,少年の杖の形が変わった.そうだ,なんだか魔道士の杖だとかなんだとか言っていた,それに変わったのだ.そのあと少年が杖を持った男に突き進んでいって,あとはただ撤退という叫び声が聞こえただけだ.二人組みの男はいつのまにか姿を消していた.御者を人質に取っていた男もだ.逃げていくときに投げ捨てたらしく,両端が鋭く尖っている金属棒が転がっていた.
少年はただぼうっと立っているだけだった.穏やかな風が少年の周りを巡る.風に揺られて木々がざわめいて,少しずつそれが静まっていった.
「おとうさん!」
完全に静まると同時に,リーが叫んで駆け出していった.そして少年の足にしがみつく.おとうさんおとうさんと嗚咽交じりの声が小さく聞こえた.
「ああ,リー.よくやった.もう大丈夫だ」
少年はリーを抱き上げ,優しく髪を撫でてやっていた.
「よしよし,そうか,怖かったか? もう大丈夫だ,ほら,そんなに泣くなよ……」
少年がリーをあやしながら,スタンリーの前まで歩いてくる.
「……なんかさ,泣かれちゃうと困っちゃうよね,あはは」
少し照れたような顔で苦笑しつつ少年が言う.
「何を言うか.歳相応ではないか? むしろあれだけやったんだ.正確に何歳なのか知らんが逆に異常だろうが」
「ああ,まあそうやって言われるとそうなんだろうけどね……」
「俺はな……」
スタンリーは言葉に一度詰まってから,正直に言おうと思い直して続けた.
「俺はな.奴らよりよっぽどお前の方が怖いぞ.むしろリーはお前に怯えているのではないかと思ったくらいだ」
そう言うと少年はまたむすっとした顔をして言い返す.
「また失礼な人だね.そうだったら僕にしがみついてくるはずないじゃないか」
「それは,そうだ.そう……」
つまり,結局のところこの少年は確かにリーの親なのだということなのだろう.だが,魔道士の杖という不思議な杖の威圧感はいかんともしがたかった.自分はこんな奴を暗殺しようとしたのか? こいつを敵に回したらどうなるのか? そして,こいつは本当に,妹クレアの仇なのか……? 分かりやすくて分かりにくい.あまりにも妙だった.
「ま,僕のことはいいとして,彼らは一体何者だったんだろう?」
「さあな.リーを連れて行きたかったらしいがお前は何も知らないのか?」
「リーを? うーん.だとしてもなあ.あんまり思い当たる節がないんだ.もしかしてリチャードだったら次に会ったときぶん殴ってやる」
「リチャード?」
聞いたことのあるようなないような名前が出てきて彼は聞き返した.
「うん.リチャード.可能性の一つとして考えておくとして,だとしたら彼には悪いことしたかもね.杖には傷つけちゃったし,ローブにも穴空けちゃったし.仮にも一級なだけあって安物じゃなかったみたいだしねえ.ああ,まあでも,リチャードへの経済的圧力としては適切だったのかも」
「……だから,リチャードとは?」
「どこぞの豪奢な椅子に座ってふんぞり返ってる兄ちゃんだよ.それ自体は文句言わないし彼にだって立場はあるんだろうけどね,どうにも」
そこで言葉が止まったかと思うと少年は少し思案したようで,少し間が空いてから次が続いた.
「あはは,ま,結局憎めない奴だね」
「……そうか」
聞いているほうもどうでも良くなってきた.
「さて.野宿なんて嫌だけどね,この調子じゃ仕方なさそうだ.スタンリー,薪を集めてきてくれたんだろう?」
そういって,先ほど投げ捨てた薪を見やる.
「ああ,そうだった」
そう言って散らばった薪を拾い集め,焚き火の形を組み上げるスタンリー.
「さ,リー.もう大丈夫だろう?」
「うん……」
リーが少年の胸の中で小さく頷くと,少年はリーをゆっくりと降ろした.ごしごしと目を擦ると,軽く杖を振って薪に火をつけた.
「その娘に決めたのね」
少女をベッドに寝かせてやると,後ろから声が聞こえた.振り返らなくても誰かは分かる.
「――母さん」
振り返ればそこには長い黒髪の女性.右手には杖を構え,真っ白のローブを着ている.少年は少しうつむいて答えた.
「うん……駄目かな」
「客観的なことを言わせて貰えばあまり賢い選択ではないわね」
そう言われると少年は肩を落として,先ほど倉庫の中から助け出した少女を眺めた.真っ白の髪,真っ白の肌.色というものを持つを忘れたかのような少女.しかしその衰弱度はあまりにも酷かった.
「でも母さん……放っておいたらこの娘は死んでしまう.なんとか助けてやりたいんだ.でも母さんもいつも言ってるじゃないか,いくら魔法でも助けるには限度が――」
「はいはい,分かってるわよ,駄目といったところであなたはそうするんでしょうね.ええ,そりゃ十二年近く母親やってれば分かるわよ.それになにより」
そこで諦めたように肩をすくめた.
「あなたは私の息子だものね」
「母さん,じゃあ――」
「ええ,好きになさい.どうせ私も私の父さんも,そしてその前もずっとそうやってやってきたんだから.まだ魔道士の杖を受け取る前に決めてしまうところも同じ.親に賢い選択ではないと呆れられるのも同じ.そして後になってその理由を知るのも同じよ.血は争えないってことね,全く」
「……母さん,もしかして僕を選んで後悔したの? 賢い選択ではなかった?」
「あらあら! またこの子は何を言い出すかと思えば.そりゃ賢い選択じゃなかったわよ.強情な息子でねえ.言うこと聞かないし自分で決めたことは曲げないし一人でどっか行っちゃうかと思ったらもう今やこうやって孫決めようなんて! でもねエヴァンス」
ここで彼女は声を落ち着かせて,言い聞かせるように,そしてきっぱりと言った.
「私はあなたを引き取って後悔したことなんて一度もないわよ」
「……そう」
少年は少し安堵したように呟いた.
「さあエヴァンス.でも前に言ったわよね.後継を決めるのはちゃんと魔道士の杖を受け取ってからだって.そりゃそうよねだって魔道士の後継だもの」
そして彼女は杖を少し投げ,落ちてきたところを受け取った.するとそれは先ほどまで持っていた到って簡素な杖はと全然違う,色々なものが取り付けられた杖にいつの間にか変わっていた.多機能型の魔道士の杖だ.
「さて,受け取るにはどうするんでしたっけね,私の可愛い息子――」
彼女が言い終える前に,少年は真剣な顔になってはっきりと言った.
「シルヴィア! 今ここであなたの魔道士の杖を貰い受ける!」
少年は突然走り出すと自分の杖を繰り出した.シルヴィアはそれをさっと避けると,小屋の外へと飛び出した.少年はそれを追いかけつつ二つの魔法を同時に放つ.
大地から尖った土の塊が勢い良く何本も飛び出し,虚空からは氷でできた矢のようなものがシルヴィアに襲い掛かる.一方シルヴィアはそれを杖でいともあっさりとなぎ払うとさらに後退した.
しかしまた新たに少年の放った魔法らしき炎の壁が彼女の背を焦がそうとし,慌てて身を捻るとそれを叩き消した.連続して虚空から現れた小さな赤い球は,彼女が叩く前に爆発し,少年の方へ突き飛ばすことになった.
少年はそこでバランスを崩したシルヴィアの手から魔道士の杖をもぎ取り,後退する.だがすぐさま体制を整えたシルヴィアは以前の杖を構えて少年を突き倒すと,その首筋に杖の先をあてがった.
「はぁ,はぁ.全く」
彼女は少し粗い息をしながら首を振った.少年はもちろん魔道士の杖を離す気配はない.
「一体どしてこっちは攻撃しちゃいけないのよ圧倒的に不利じゃない!」
少年は動かない――いや動けない.彼女の精神魔法で完全に縛られていた.
「こんなにすぐに奪われるなんて不覚.でもねエヴァンス.いつの間にか強くなったわね.私の知らないうちに.ちょっと甘く見すぎてたみたい.もう少し気を引き締めるべきだったわ……私の反省材料ね,悔しいけど」
そこで彼女は精神魔法を解くと杖をどかした.
「私の可愛い息子オーヴェル! でも規則は規則よ.あなたはこれから魔道士.そしてその自覚を持って行動しなさい!」
少年は起き上がって埃を払った.
「……ありがとう,シルヴィア……いや.母さん」
そう言うと少年は小屋の方へ向かって駆けて行った.
「あーあ.それにしても,もういなくなっちゃうのね,息子って! また新しい杖作って,別の子引き取ろうかしらね!」
諦めたような,寂しがっているような,でもそれでも喜んでいるような,そしてさらに何か楽しんでいるような――そんな複雑な声が少年の耳に届いた.
「……でもエヴァンス,私が二歳くらいのあなたを引き取ったのも,確か今のあなたくらいの歳だったわ.お互い様って所かしら.ふふ.あのとき寂しそうな顔してた父さんの顔がようやく本当に分かった気分よ」
その呟きは少年に聞こえたのかどうか.彼女は言い終えてから少年の後を追った.
そして少年は,先ほど助けた少女の前に立つと,左腕を少女の口の上に出した.
「さあ,これから君に,魔道士オーヴェルの血を分けよう.そして君は僕の娘となり,同時に僕は君の父となる.そんな君を僕はリヴィアと名付け,リーと呼ぶことにしよう」
少年は右手で持った魔道士の杖を左腕にあてがい,すっ……と引いた.赤い血が流れ出て,少女の口に入る.真っ白な少女の顔はすぐさま赤く汚れ,少年の腕から血が止まることはなかった.それほど長い時間が流れる間もなく,少年はふらりと倒れそうになる.
「やりすぎよエヴァンス.ほどほどにしときなさい」
いつの間に小屋にいたのか,そんな少年をシルヴィアが苦笑して受け止める.杖を少年の腕にあてがうと出血は少しずつ収まり,やがて止まった.
「困った子ね.でも,あなたの言いたいことは分かるわ.だって,そうでもしないと助からないと思ったんでしょう? そうよね,私もそうだったもの.だけどあなたが死んでしまったら,この娘はどうなるのよ.私の大切な孫だっていうのに,ほったらかしにしないで欲しいわね」
既に意識の途切れている少年を,まるで幼子にするようにあやしながら彼女はそう呟いた.
「その腕の傷痕は消えないわよ.でも,私とあなたが私のこの傷痕で繋がっているように,あなたとその娘も,あなたのその傷痕で繋がるの.信じられないくらい馬鹿みたいな話だけど.でもきっとよ.きっと」
そういうシルヴィアの右腕には,確かに深い傷痕が残っていた.
「スタンリー,何か持ってる?」
「何か,とは?」
「食べるものさ」
「自分の分なら保存食を持っていたはずだが」
「ああ,それなら良かった.僕らも自分の分しかない」
火が焚かれると,三人で携帯食を食べ始めた.御者はまだ目を覚まさなかったので,少し多めの毛布を使い,寝かせておいた.もっとも,スタンリーは,ここまで目を覚まさないとなると,少年とリーが色々ごたごたを避けて魔法でも掛けたのではないかと疑いはじめてはいた.なにせ毛布かけるときにかなり動かしたがそれでも目を覚まさないのである.
「おとうさん……」
リーは少年の膝の上で少年を仰ぎ見て呟く.
「ん?」
「あっためていい?」
保存食を温めておいしいのかどうかは分からなかったが,リーはどうやら冷めているのが気に食わないようだ.
「ああ,おいしいかどうかは知らないけど.気をつけて温めておいで」
「うん!」
そう言うとリーは少年の膝から降りると火の傍まで行ってちょこんとしゃがみ,串の先についた保存食を火に近づけた.
「リー,焦がしても知らんぞ」
それを見ていたスタンリーが心配して言う.
「大丈夫だもんっ.そんなこと言ってないでスタンリーもあっためたら? あっためた方がおいしいのよ」
「いや,遠慮しておく」
「ふーん.おいしいのにぃ」
だがそこで,少年まで僕もやってみようかななどと言い出し,リーの隣に座って温めはじめた.結局のところ,温めるとおいしいということを発見したらしく二人で温めて食べていた.温める手間無しに食べていたスタンリーは先に食べ終わってしまい,毛布をひっぱりだしてごろんと転がった.
しばらくすると二人も食べ終わり,少年はリーを抱いて大きな木にもたれかかると上からマントをかぶせた.馬車の中で眠っていたはずだが,それでもしばらくするとリーは寝付いていた.そんなリーを見て,いつでもどこでも必要な時に寝られるように,そして必要な時には起きられるようにと教育したことを少年は思い出していた.
スタンリーも寝てしまっているようだったので,代わりに少年が起きていた.見張りが必要だろう.
「ねえ,リー.君は……」
少年が呟いた.
「君は,その銀の髪が問題になる.そう,スタンリーの妹さんのように.もっと言うなら,そう.君の産みの母親のように」
話し掛けられているリーは熟睡していて,多分少年の声は聞こえていない.
「要らない物を受け継いでしまったと君は思うかもしれないけど.でも銀の髪は女の子にとって有利じゃないかな.それから,魔法使いにとってもだ」
リー静かに寝息をたてている.どんなに行動が大人びていても,どんなに言動が大人びていても,どんなに魔法使いとしての実力があっても,でもその寝顔は歳相応の可愛らしい寝顔だった.
「それから,僕はリチャードのところに行かなければ.彼の事情は分からないでもないけれど,僕は許さない.スタンリーには申し訳ないけど,明日はガルヴァディア宮殿に向かおう.ここからそれほど遠くはないはずだ」
リーが少年の腕の中で身じろぎする.寝にくいのかもしれないと思って抱きなおし,その長い銀の髪を指で梳いてやる.
「もしジスティムティに行くのなら,そこには多分,意味だけが残ってる」
月明かりも弱い夜空の下,リーが付けた小さな焚き火がほんのりと辺りを照らす.少年は焚き火を消す気にはどうしてもなれなかった.
「おはよう」
「ん,おはよう……」
リーは眠そうに目を擦って,伸びをする.
「リー,御者さんを起こしてやってくれないか」
そういうとリーは,うん,と返事をして御者の方へ走っていった.
御者には少年のかけた睡眠魔法が掛かっていたから,それを解かなければならない.リーは意識を集中して少年の掛けた魔法を見ようとした.見る,というよりは感じられるといった方が正しいのかもしれない.いずれにせよ,リーには御者のまわりをゆるく包む糸が見えた.術者によって違う感じ方をするというが,リーは糸で見ることが多かった.
後は,その糸を解く.それほどきつく縛られているわけではないようだったから,それほど難しくもなさそうだ.リーは杖を構えて結び目を次々と解いていった.
「それからスタンリー」
スタンリーは既に荷物をまとめて,出かけられる状態になっているようだ.声を掛けられて少年の方を向く.
「何だ?」
「申し訳ないけど,予定変更だ.ジスティムティには行けない.ガルヴァディア宮殿へ向かうよ」
「何故だ? 関係ないだろう」
「ないかもしれないけど,まず間違いなくリチャードだ.そうでなければ改めてジスティムティに行けばいい.でなければ意味を求めて」
スタンリーはしばらく黙っていたが,結局諦めたように言った.
「もういい.好きにしやがれ」
「あはは,なんか立場が逆だね.始めは君が妹さんの仇だって言って僕のところに来たんだ」
「それは昨日の朝の事だ.俺はどうしてこんなところにいるのか分からん」
「まあ,とにかく確認しなくちゃいけないことがあるんだ.ガルヴァディア宮殿へ行こう.リーの父親として僕も無関係じゃない.そして君の姪なら.話は全て終わってしまう」
「何? 姪? 何の話だ」
「だからそれを確認に行くんだ.つまり,はっきりしたことは分からないけど,要するに君の姪かもしれないんだよ」
「誰がだ」
「リーが,だよ! 君は少しも気付かなかったのかい? 銀の髪は世間の冷たい風が当たる.君の妹もそうだった.そしてリーもだ.暗い倉庫に閉じ込められて衰弱していた.そこを僕が助け出したんだ! そしてあの時の任務は……」
少し間を空けて,強張った声で言った.
「呪われた女を殺せ,だ」
スタンリーは突然冷や水を浴びせられたように立ち尽くした.なんだって? なんだと!?
「おいっ!」
スタンリーはリーの方を向くと突然怒鳴った.
「おい,リー! こっちを向け! 顔を見せろ!!」
魔法を解き終わって目を覚ますであろう御者を見ていたリーは,怒鳴り声に驚いたのか怯えた顔でスタンリーの方を向いた.
「なんだと……? なんだと? くそっ!」
リーの顔を見ると,みるみるうちにスタンリーの表情が変わり,そして近くにあった木を思い切り殴った.上からぱらぱらと虫や木の実が降ってくる.
何故だ? 何故自分はリーの顔を一度も見なかった?
「ど,どしたの? スタンリー?」
リーが慌てて駆け寄る.
「お前は……,お前はクレアか……? お前はクレアなのか!?」
赤い目.銀の髪.異常なほどに白い肌.そして顔立ち.似ていた.何もかもが似ていた……似過ぎていた.
「……ごめんなスタンリー.君がリーの顔を見ていないのは,リーと僕のせいだ」
ぼそっと,少年が呟く声が届いた.だがもう,スタンリーにそんなことは関係なかった.
一方,御者の方は魔法も解かれて無事目を覚ましたらしくきょとんとしながら辺りを見回していた.もっとも,スタンリーの叫び声などで起きた分もあるかもしれない.
「御者さん,ごたごたに巻き添えにしちゃった上に申し訳ないけど,予定変更なんだ.ガルヴァディア宮殿に向かってくれないかな.お詫びに馬車の修理と補強と雨よけ,手綱の強化とかしたんだけど,他にまだ必要なことある?」
だが御者は事態が飲み込めないらしく,きょとんとしていた.
「あの,御者さん? 申し訳ないんだけど,いいかな?」
そこでようやく我に返ったようで,慌てて返事をした.
「あっ,は,はいっ.もちろんですとも魔法使い様.色々ありがとうございます,目的地はガルヴァディア宮殿でよろしいですね?」
「うん,お願いするね.馬車は道に保護魔法をかけてあるし盗まれたりとかはしてないはずだから」
そういうわけで一行は馬車へ向かうことになったが,スタンリーだけは放心状態で動こうとしなかった.少年が半ば強引に馬車に乗り込ませると,少年の魔法のお陰か馬車は以前より快適に走り始めた.
「馬鹿だね,僕は」
宮殿へ向かう馬車は重い空気に包まれていた.スタンリーは壁に手をつき項垂れていたし,リーはそれを心配そうに眺めていた.少年は窓の外に向かって,呟き続けていた.
「僕は初めから分かっていただろうか? 僕は一体何を忘れてきた? 証拠が欲しかった? でも,渡さない.渡せない.誰にも……」
誰にも渡さない.リーは僕の娘だ.自分で助け自分で育てた.僕はどうすればいいのか分からなかったけど,リーはよく育ってくれたと思う.母さんは言ってたっけ.魔道士の血が流れる子は普通の成長はしないのだと.見ていれば分かった.リーは全然普通の育ち方をしなかった.僅か二年.僅か二年だ.たった二年という時間で第三級魔法使いにまでなった.日常生活であまり苦労するようなことはなかった.何も考えなくて済んだ.まるである程度育った子を引き取ったような感じだった.
僕も,そうだったのかもしれない……
でも,妙なところで理解してなかった.お父さんという言葉が父親を意味する言葉だと少しも理解しなかった.今もしてない.ただ,僕がおとうさんと呼べと言ったからそう呼んでいるだけ.誰を呼ぶにも呼び名を尋ねる.相手が答えた呼び名でそのまま呼ぶ.何故? 何故理解しない? 僕が理解したのはいつだった? 分からない…….
そうだ.困ったこともあった.肌が白かったから,陽光に弱かった.すぐに荒れ,焼け爛れた.だから,まずやらなければならないことは,その肌を陽光から守ることだった.僕はそのための研究をした.ひとつの魔法を完成させた.それで,リーを守ることができると思った.実際に今も守られている.それから,赤い目も隠した.人からの好奇の視線から守るために.成功してたと思う.大丈夫だったと思う.普通の人には,澄んだ綺麗な空の色に見えていた.だけど時々弱くなって,赤の色が見えてしまって,慌てた.だから僕は,なるべく人に顔を見せるなと言った.言ってしまった.それは他人に対して失礼なことだと思ったけど,リーが自分で隠せるようになるまでは,必要なことだと思ってた.今でも間違ってなんかいないと思う.思いたい.
でも僕は,こんなに慌てたことはなかったし,だけど,こんなに安堵したこともなかった.リーの赤い目を人に知られたことで,こんなにも慌てて,こんなにも安堵するなんて.
――母さん.
ねえ,母さん? クレアさんを殺したのは僕? それとも,母さん? あのとき,リチャードはなんて言ったっけ.そして僕は何度馬鹿なことをいっただろう? 何で……,何で,僕が…….
少年の手に記憶が蘇る.美しい女性だった.真っ白で,さらさらした綺麗な銀髪で,民族衣装なのかゆったりとした布を巻きつけていた.陽光を避けるために深く布を被っていた.女性のあばらに伸びる杖.先が少し当たった瞬間,ぼろっ,と,何かが崩れるような嫌な感触.内臓がぼろぼろに破壊され崩れ落ちる気味の悪い感触.走る悪寒.襲う嘔吐感.女性は膝を付き倒れ,少年も口を抑えて地面にうずくまった.
――そして,思い切り泣いた.
殺した.どうして.どうして…….どうして,僕が.なんで僕が.あんなに綺麗な人だったのに.あんなに素敵な人だったのに.彼女は何故死ななくてはいけなかった? 何故僕は殺さなければならなかった? でも彼女は……,自分から死を受け入れてしまった.
リーは似ていた.あまりにも似ていた.分かってたんだ.僕は初めから全て分かってた.分かってなかったのは,あの人がクレアという名前だったことだけ.
でもリーは渡さない.僕は手を離さない.僕はあの人を殺してしまったから.分かってる.全部自己満足でしかないことは分かってる.スタンリーに悪いことをしてるのも分かってる.だけど,ダメなんだ.ダメなんだよスタンリー.リーの為に.そして何よりも僕自身の為に,僕はリーが一人で歩いて行けるようになるまで,絶対に手を離したりしない!
馬車は舗装された道を快適に走り抜けていった.ガルヴァディア宮殿は威風堂々とそびえたっていた.
「到着です,魔法使い様」
御者が馬車を止めて言った.
「ガルヴァディア宮殿正門前です」
「……そう.ありがとう.君には迷惑をかけたね.追加で支払っとくよ,慰謝料と思って受け取ってくれ.リー?」
少年がそう言うとリーが馬車から降りてきて,何枚かの金貨を御者に渡す.
「え,あ,いや,こんなに頂くわけには……」
「いいの.こういう時は取っといてよ」
押し付けるように言って,今度はスタンリーを呼びに戻った.
「さあ,スタンリー.目を覚ませ.いくら似ていてもリーは君の妹じゃないぞ!」
「黙れ……」
スタンリーはゆっくりと振り向いて,低い声で言った.
「何故今まで黙って,いた……」
「スタンリー! 僕も分かってくれとは言いたくない.だけど.そう,僕はリーを守らなくてはいけなかった.赤い目,白い肌,それを知られたときどういう扱いを受けるかは君こそよく知っているはずだ」
少年は杖の先をスタンリーの目の前に突きつけた.魔法使いなら感じられたであろう細い糸が数本スタンリーを包み込む.
「よく知っているはずだ.違うかい?」
もう一度尋ねる.スタンリーは俯いて答えた.
「……そうだな」
「謝ろう,スタンリー.黙っていたこと,煽ったこと,色々.それにまだ僕は君に黙っていることがある.それは君によってほぼ確実になったこと.君がどう思っているかは分からない.でも僕はこれでいいと思う.君に知らせなかったこと.そして図らずも知らせることになった時期.まだ知らせていないこと.そしてこれから知らせること.君の言う通りだ.僕はただの子供で大馬鹿だ.だけど,結果的には,被害は最小限だったと思うんだ」
「はっ……好きにしやがれ.どうせ初めからお前はそうやって来ただろう!」
そういうスタンリーの目は,不敵に笑っているように見えた.半ば自棄になっているようにも.
少年は苦笑気味に肩をすくめた.
「ありがとう,スタンリー.僕はこれからリチャードに会いに行く.君はどうする?」
「何だ,俺を置いていくつもりか? 俺が当事者だ.全てを話せ.真実を伝えろ」
「……ならば宮殿へ」
少年がそう言うと,ようやくスタンリーは馬車を下りた.宮殿の正門には門番と,それからリーが待っていた.
「お勤めご苦労様.リチャードに伝えて欲しい.エヴァンスとリーが来たと.それから……」
少年はスタンリーにちらっと目をやる.
「それから,スタンリーが来たとも,伝えて欲しい」
そういい終えると,少年は魔道士の杖を掲げて,門番の返事も聞かず中へ入っていった.その後ろをリーが三級魔法使いの杖を振って追いかけていく.
「おいエド! 置いていくなと言っただろう!」
そんななか慌てたのはスタンリーで,門番に軽く会釈をして二人を追いかけた.もっとも,門番はそんなスタンリーを止めはしなかったが.
「久しぶりだな,チャーリー」
スタンリーが驚いたことには,結局少年が辿り着いた先は謁見の間,即ち王が居る所だった,ということである.宮殿へ行くといっていたからには不思議ではなかったのかもしれないが,全くそんなこと考えもしなかったのである.
「そうだね.お久しぶり,リチャード」
そしてそれに対してさも対等かそれ以上のように振舞う少年も少年である.
「リーもいつの間にか大きくなったな.もっとも,君に対してははじめましてと言うべきだろうが」
そして横に立ったリーは,少年から突かれると,ローブの裾を可愛らしくつまんでお辞儀をした.もっとも,リーに関しては多分相手を分かっておらず父親を真似ているだけなのだろうが.
「はじめまして,リチャード」
が,置いてきぼりを食らっているのはスタンリーで,一体何をしていいのやら慌てふためくばかりとなった.
「お,おい,エド……」
少年を後ろから小声で呼ぶスタンリー.
「ん?」
「聞いてないぞ,ガルヴァディア王に会うなんぞとは!」
「え,ガルヴァディア宮殿に行ってリチャードに会うと言ったはずだけど」
「だから! リチャードなんてありふれた……あ,いや,よく聞く名前だろうっ.それで分かれって言うのは」
本人は小声のつもりだったのだが,知らぬうちに声が大きくなっていたのか,それとももしかしたら耳がいいのかもしれない.スタンリーがいい終える前に,リチャード本人が口を挟む.
「まあ,確かにありふれた名前ではあるな.意外と偉人の名というのは使われやすいらしい.そういう私も,かのガルヴァディア四世の名前を授けられたらしいからな.もっとも,名前が強い意味を持つのはせいぜい魔道士くらいなものだろうが.なぁ,チャーリー?」
「……」
話を振られて黙ってしまう少年.
「おっと,この場ではエドと呼ぶべきかね?」
「……もう,この際分かれば何でもいいよ」
困った顔をして言う少年.
「ん? エド?」
リーが不思議そうな顔をして少年のローブの裾を引っ張る.
「ああっ,もう! リー,君は今まで通りお父さんと呼んでくれればいいんだってば」
さらに困った顔をして言う少年.
「ん.おとうさん」
呼び直して頷き,ローブの裾から手を離すリー.
「それはともかくだ.君は何か用があってここへ来たのではないのかね?」
「分かってるんだろうが」
「白の民のことか? まあ,確かに,リーを連れてよこすように言ったのは私だ」
「よくもそんな……手を出すなと言ったはずだ.リーは魔道士の後継だと」
語気を強めて言う少年に対して何か諦めたように答えるリチャード.
「わかっているさ.私だって魔道士を敵に回したくはない.そもそも君がうちを出て行ってから税が取れなくて財政には困っているのだぞ.そのうえ杖一本とローブ一着だ」
少年の視線が険しくなる.それを見てリチャードは溜息をついた.
「何度も言う.分かっている」
「なら,何故……」
「魔道士は恐い.だが民衆も恐いのだぞ.私は個人的になら白の民に対しても平等に扱いたいと思っているとも.だがな,忌み子だと古くからされてきた民族を解放するのは難しい.開放することで国に利益があるのならしよう,だが今はそれでないのだ」
「……君は国の事しか考えてないのか.リーはどうなる.クレアは……あの人はどんな思いで死を受け入れたと……!」
「馬鹿を言うな.国の事しか考えていないのは間違っていない.だが適切に言うのなら国の事しか考えてはいけないだ.一人の命のために多くの人を不幸にするよりも,多くの人の幸福のために一人の命を犠牲にする,それが人の上に立つ者に必要なことだ.そして国王となればなおさらだな.一つの国を背負う責任を知れ!」
リチャードが声を大きくして少年に向かって言う.最後の勢いを受けて,少年の口から反射的に言葉が吐いて出た.
「なんだと!? ならば世界をっ……!! 世界を……っ!」
だが,途中で喉を詰まらせて,突然うずくまり大理石の床を思い切り拳で叩いた.
「うっ……ううっ……」
そして,ぼろぼろと泣き始める.
「おとうさん……?」
リーが心配そうに少年の下に寄る.スタンリーは,あまりに今までの少年に対して不釣合いなことにひどく驚いていた.
「世界を? 世界を,何だ? エヴァンス.まだ言えぬか? 『世界を背負う責任を知れ』と.なんたる単純な言葉だろうな.魔道士とは不憫なものだ.言葉にすら不自由をする」
少年が,うずくまったまま首だけを上げて,涙を流している目でリチャードを睨み付けた.
「黙れ,リチャード」
明らかに怒気を含んだ少年の声が飛び,辺りから音が消えた.そしてまた少年が口を開いて,だがその口から漏れてくるのは結局ただの嗚咽でしかなかった.リチャードは,言葉が続かない少年を複雑な表情で見て,続いてスタンリーに目を移す.
「……スタンリー,と言ったか」
リチャードの声がスタンリーに向かう.スタンリーは驚いて顔をあげ,はいと返事をした.
「白の民の身内か」
「クレアのことでしょうか.はい,私の妹です……」
「そうか.クレアと言ったか.悪いことをしたな.謝ろう」
そういうとリチャードは王座から立ち上がって,スタンリーに向けて深く頭を下げた.
慌てふためいたのはスタンリーの方で,まったくもってどうして良いのか分からずただうろたえるばかり.今更謝ってもらったところでどうしようもないと反論したい気持ちと,だが国王に頭を下げられ畏れ多い気持ちも混じって,結局何も出来なかった.
「君の妹,クレアの殺害を,エドとその母親のヴィアに命じたのは私だ.理由は呪われている言われる白の民の消去.ずっと村の中に居てくれれば良かったのだが,誰かが連れ出したようだ.瞬く間に噂は広がり,各地で暴動が起こった.最も被害の少ない対処法は,白の民を消去することであると私は考えたのだ」
静かにリチャードの言葉が続く.
「そこで私は,当時私の元に居た魔道士を使い消去させた.そのときの魔道士が,そこのエドの母親ヴィアだ.もっとも血の繋がりに関しては,我々とは違うようで魔道士の言うことはよく分からないが.いずれにせよ直接手を下したのはヴィアではなくエドのようだな.そして,帰ってきたときはエドが魔道士の杖を携え,後継者たるリーを腕に抱えていた.だがそのリーも問題の白の民で――」
ようやく,少年が袖で涙を拭いて立ち上がった.
「リチャード.詳しいことは君も知らないだろう.僕が話す」
そしてスタンリーの方を向く.
「直接手を下したのは僕だ,スタンリー.君の妹クレアを殺したのはね.だから妹の仇だと言ったことは間違っていない.だけど,彼女は全部分かってたみたいだ.村を出た理由は知らないけど,それがどういうことかは分かっていたみたいで,僕らが到着した時には既に覚悟が出来ていたように見えた.だからかどうか分からないけど,母さんは僕に,やらせたんだ.あの時あったのは使命感と罪悪感で――,ただほんの少しだけ使命感の方が強かったかもしれない.戸惑う僕の杖を,彼女は自ら受け入れるように――」
そこで少年は,嫌な思い出を振り払うかのように思い切り首を振った.
「我ながら強力な魔法だったと思うよ.もう二度と使いたくない嫌な魔法だったけど.彼女は苦しまずに死ねたんじゃないかな.だけど死に際に一言,こう言ったんだ」
少年は傍に居たリーを引き寄せた.
「娘を,と」
はじめ不思議そうに少年を見上げたリーだったが,少年が微笑み返すと腰にしがみついて顔をローブにうずめた.少年はリーを包み込むように手を回して,続ける.
「だから僕は,この子を引き取ることに決めた.だけどどこに居るのか分からなくて,探して見つかったのは随分後だった.どこか倉庫みたいなところだったと思うけど,この子は衰弱してて.だから僕は,僕の血を与えた.魔道士としての使命だなんて馬鹿馬鹿しいこと伝えたくなかったけど.だけど身を守る手段が必要だと.それになにより,魔法でも回復できるような状態じゃなかったから.だから僕は,僕の血を与えたんだよ」
「……魔道士の使命?」
そんなものがあるとはつゆ知らず,スタンリーは思わず聞き返していた.少年が言いづらそうにしていると,代わりにリチャードが答えた.
「世界を支えること,だそうだ,スタンリー.彼らは強力な魔力の存在で世界の支柱となり支えていると言われている.世界にはそこのエドを含めて七名の魔道士が居て,今エドがその使命を放棄しているが為に不安定になっているらしい.もっとも,事実かどうかは知らない.私は魔道士ではないからな」
少年はまた何かを振り払うように首を振って,続けた.
「……ま,そうらしいってことさ.とにかく,リーを連れて帰ってきた僕は大変なことになった.白の民を消去するよう命じられたのに,その白の民を腕に抱えて帰ってきたんだからね.だけど僕はクレアに誓った.リーを引き取って,自らの身を守れるようになるまで育てると.だから,この国から逃げたんだ.そしてリーが白の民であることを隠す為の魔法を研究した」
少年は抱き寄せていたリーを放して,スタンリーの目の前に移動した.
「さあ,これが全てだ.僕はリーを守ると誓ったけど――でも君が代わりに彼女を守るのなら,僕に生きている価値は無いよね.魔道士として世界を支える役にも立たない.リーを守りきることだって,できるかどうか分からない.だから,スタンリー.さあ――」
少年は手に持った杖を遠くに放り投げて,両腕を横に広げた.そして今にもまた泣き出しそうな顔をしながら,静かに,しかしはっきりと告げる.
「仇を討て.僕を殺すといい」
「仇を討て.僕を殺すといい」
少年のはっきりとした声が耳に届いた.
「ようやく全てを吐いたか」
一歩前へ進み,少年の前に立つ.
「この……」
静かにナイフを振り上げる.
「馬鹿者がっ!!」
叫ぶと同時にナイフが振り下ろされ,驚いたリーが駆け寄り,少年は目を瞑った.
――ガキン!
ナイフは少年の頭の上を通り越して,壁に突き刺さった.
「……お前は責任逃れをするつもりか? 自分の決めたこともできないか? リーを引き取って育てると決めたのだろう? クレアが言ったのだろう? 魔道士としての役目があるのだろう!?」
パン! と音がしたかと思うと,少年はスタンリーに頬を叩かれていた.
「ンなに簡単に死のうとするんじゃねえ! 魔道士としての役目とやらはどうした! 自分の決めたことはどうした!? 全部責任とってリーを育てやがれってんだ!!」
思い切り大声で怒鳴って,そしてスタンリーは謁見の間から駆け出していった.
リーがそれを追って謁見の間の入り口まで行くが,ふと振り向いて父親がまだ頬を抑えてしゃがんでいるのを見てまた戻ってきた.
「……スタンリーとやらに深く感謝するのだな.エヴァンス」
リチャードの声が少年の耳に届く.
リーは少年の杖が遠くに転がっているのを見つけると,それを取りに走って,戻ってきた.
「……はい,お父さん」
ようやく意味を理解したであろうその呼び方に,少年は泣き笑いのような表情を作って杖を受け取った.
「ありがとう,リー」
そして立ち上がってリチャードの方を向いて,頭を下げた.
「ありがとう,リチャード」
くるりと体の向きを回転させて入り口の方を向くと,また深く頭を下げた.
「ありがとう,クレア.ありがとう,スタンリー……」
杖を持ち直し,リーの手を握る.
「……さあ,帰ろうか,リー」
そして二人は歩き始めた.
END.