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「はいっ,どなたでしょう?」
 スタンリーが扉を叩くと,中から元気のいい男の声が聞こえて,酷く記憶との不一致を覚えた.確かに14年も経っていれば記憶の齟齬は発生するだろうが,それにしても変な気がする.と思っていたら,中から現れたのは顔立ちのいい青年だった.まだ歳若く見える.恐らく20前後であろう.真っ黒のローブを纏い,少し長めの黒い髪をうなじあたりで束ねていたが,その瞳の色は濃い青で,肌は色白だった.
「おや.青の髪ということはザーヴィアの方ですね」
「ああ,まあ,そうだが.ところでリーは居るか?」
「ええと,リーのお知り合いさんですか.居ますけど,いや,その.ちょいと取り込み中でしてね」
「取り込み中? 何かやっているのか?」
「うん,多分授乳中」
「……は?」
 かなり間の抜けた返事をしつつ,授乳とは一体何を示すのかとしばらく考え込んでしまうスタンリーだった.そんな風に彼が考え込んでしまっているうちに,奥から声が聞こえてきた.
「アラン? お客さんなの?」
「あ,うん.君を尋ねて来てくれたみたいだけど,知り合いなの?」
 奥から乳飲み子を抱えた女性がやってくる.アランと呼ばれた青年が脇に退いてその女性の姿が良く見えるようになると,一瞬,自分は過去に戻ってしまったのではないかと思った.長い銀の髪,真っ白の肌.白くて足元まである長いローブを纏うその姿はまるで,今は亡き妹クレアそのものかと思えた.だが目の色だけがスタンリーを現実に引き戻す.それはクレアの持っていた赤ではなく,済んだ青だった.
「リー,か? リーなのか?」
 とても信じられずに尋ねてしまう.それに対して銀の髪の女性は頷いたが,怪訝そうにしていた.スタンリーの顔の記憶を必死に探しているのだろうが,果たして当時4歳だった彼女がどこまで覚えているだろうか.
「そうか.リーか.これではまるでクレアだな」
 苦笑して言うスタンリーに,驚いて目を開くリー.
「え……?」
「さすがに覚えてないか? スタンリーだ.クレアの兄,お前の伯父だ」
「あ……スタンリー? やっぱりスタンリーなのね? もちろん覚えてるわ.青い髪をしていたからもしかしたらとは思ったけど……あ,アラン,アヴェンお願い」
 リーはそう言って抱えていた乳飲み子をアランに渡し,スタンリーに近づいてお辞儀をした.
「お久しぶりです,スタンリー」
「なんだ,覚えているのか.当時四歳ではなかったか? ませすぎだそれは」
「あら,それは仕方ないのよ.魔道士の娘だもの」
「そうか.それにしてもリーよ,なんだ,アヴェンといったか,その赤子はお前の息子か?」
 今はアランの腕に抱えられているアヴェンを示して言う.
「そうよ」
 微笑んで即答するリー.なるほど,母親の顔か.
「エドよりは遅いのだな.まあ一般的にはまだ早い気もするが.それにしても,それではアランと言ったか,君は何者なのだ? 赤の他人に赤子を預けるとはとても思えんのだが」
「わっ.心外ですねスタンリーさん!」
 アランが抗議の声を上げた.
「まるで父親には息子を抱く権利が無いみたいじゃないですか.そんなの酷いですよ」
「は? 父親だと? それはどういうことだ?」
 さらに混乱して顔をしかめるスタンリーに対して,リーがくすくすと笑い始めた.
「あら,やだわスタンリーったら.子供っていうのは普通母親と父親が居るものではなくて?」
「それは,そうだが……」
 さらにしかめっ面をするスタンリー.
「もう,お父さんのせいね,まったく.言っておきますけど,アヴェンは私の実子よ,スタンリー?」
「むむ? ……まさか,お主ら,夫婦か?」
「そうさ! そしてアヴェンは僕らの愛の結晶……」
 アランが言い終える前に,リーが素早くアランの口を塞いだ.
「もう! どうしていつもいつもこう恥ずかしいこと言えるのかしらねこの口は!
 ……まあ,いずれにしても,そういうことですけどね」
 恥ずかしそうに苦笑しながら答えるリー.
「なんと……そりゃ,また……あ,いや.こういう時はなんと言うべきなのか良くわからぬぞ」
「いいわよ.別に何も言ってくれなくても.とりあえず中に入る? こんな時間ってことは泊まっていくのよね.アランいいわよね?」
「もちろんさ」
 そう言うとアランはアヴェンをリーに手渡して,家の中に入っていった.
「さ,スタンリーもどうぞ?」
 招き入れるリーに,スタンリーは少し躊躇した.
「いや,別に泊めてもらうつもりはなかったのだが」
「え,でもアランったら,もうあなたの分の寝床用意してるところよ?」
 笑って言うリー.
「……確信犯か」
 リーはそれには答えずスタンリーを招き入れ,そしてスタンリーは遠慮がちに入っていった.

 初めて彼女と喋ったのは,学校だった.別に,それは初めて見た時ではない.彼女はとても白い髪を持っていて,とても白い肌をしていて,とても白いローブを纏っていたから,街中でも良く目立った.でも実際,彼と彼女の関係はといったらそこまでで,別に自分は何か外見的に目立つ特徴があるわけでもないから,彼女が彼のことを知っているだなんてことは多分ないだろう.もちろん彼女が彼を見かけたりしていないとはいえないが,見かけていたとしてもそれはせいぜい通行人の一人という認識でしかないだろう.要するに,関係,だなんて呼ぶことすらおこがましいような,そんなものである.彼女はただ白い存在で,特別な感情があったわけでもなく,そこまでだった.
 彼はずば抜けた実力生で,だが優等生ではなかった.要するに授業はあまり出ていなかったが,成績は良かったし,やるべきことはすべてやってのけた.生徒たちにとっては羨望の的でしかなく,仲間は少なかった.彼は一人で何もかも出来てしまう実力があったし,実際集団で何かやるということをしなかった.授業でパートナーと二人がかりで使うべき魔法を,パートナーを無視して両手でいとも簡単に扱ってしまった時は教師だってそりゃたまげたものだ.だが困ったのは当然パートナーのほうで,そんな彼の協調性のなさが,友という存在を作らせなかったともいえる.いじめだって一時あったが,今やもう返り討ちを恐れて彼に手を出すものなど居なくなった.教師が束になってかからなければ止められないほど,彼は強かったのである.
「いや,学外の者を入れるわけには……」
 ふとそんな声が耳に届く.かなり近い.近いって,そりゃすぐ隣だ.杖を伸ばせば発話者を叩けないなんて事はない.通り過ぎようとした図書館の入り口で,誰かが足止めを食らっているらしい.
「そう……少し調べものがあるだけなのだけど」
 女の声.白い人.一目見たらすぐにわかる.まるで色を持つことを忘れてしまったかのような少女.彼は,ふと足を止めて,言った.
「チャーリ,入れてあげたら?」
「あ,アラン.またそんなことを言って……」
「何が不満なのさ.ちゃんと一級魔法使いの杖を携えている人を入れないなんて,魔法学校として恥じゃんか」
「それは,そうですが,その……私にはそういう権限は……いや,学内の者である証明があれば」
 アランは今度,白い少女の方を向いて聞いた.
「君,ここの学校の娘? 単に証明石なくしちゃっただけ?」
 すると,少女は首を振った.
「いいえ.残念ながらここに通ってるわけではないの.だけど,家の本ではどうしても足りなくなって,それで,ここならと思って.でも無理なら仕方ないわ.他をあたるから……」
「チャーリ,僕が付き添うよ.さ,どうぞ,お嬢さん」
 アランは,少女が言葉を言い切る前に,それをさえぎって勝手なことを言った.少女は少し驚いたような顔をして口をつぐみ,チャーリは慌てた.
「アラン! またそんなことを言って.次の授業は無いのですか?」
「なに言ってんだ.来年から魔方陣の教師になる僕に,今更『応用魔方陣の描き方』なんて馬鹿馬鹿しいことやってられるわけ無いだろ!」
 アランはそんなことを言って,少女のローブの袖を掴むと図書館の中へ引き入れた.
「え? え?」
 突然引っ張られて驚き,少しばかりよろめく少女.転ばないようにするためにはアランに続いて図書館に入るしかなく,彼女はそれを選択した.
「あ,ちょっと! アラン! そういう問題では……」
「大丈夫! この娘が図書館内に居る間の責任は僕が取るから!」
 いささか広めの図書館のロビーを突っ切って,彼らは階段を駆け上がった.
 一般に生徒に公開されているのは一階から六階までで,それぞれ階級分けがしてある.一階はまだ魔法使いでない見習いも閲覧可能で,二階は五級以上の魔法使いが閲覧でき,三階なら四級魔法使い以上が閲覧できる.そんな具合で続いて,六階は一級魔法使いのみが閲覧できるようになっている.実際には単純な話で,階段には巧妙な仕掛けがなされていてその実力が無ければ階段なぞ上れないようになっているだけだったりする.
 この図書館,どうやら地下も存在するらしいが,そもそも生徒は利用できない.禁書が収められているとか色々噂はされているが,結局入り口すら見つからないので,生徒の中で真実を知る者は居なかった.ただ,例えばアランのような生徒が本気で探せば見つかるのかもしれなかったが,アランはどうやらそういったことには興味が無いようだった.
 チャーリは結局追いかけてこなかった.というか,彼は見張り番なので,追いかけている間にまた別の招かざる客を入れてしまえば事態は悪化する.そしてなによりも,結局アランはこういうことにかけては信用できてしまう人なのである.責任を取ると言ったら,あっさりと取ってしまうだろう.止めても止めなくても自分にとって大差ないなら,止めないほうが楽だ.少なくとも,止める努力だけはした.
「……どうして?」
 さすがに戸惑いつつ,少女が口を開いた.とりあえずのところ,さすがに一級魔法使いの杖を持っているだけあって,二階に上がるための仕掛けは難なく超えてきたらしい.
「あ,そだ.袖,大丈夫? 伸びちゃった?」
 全然関係ない事を言うアラン.どうせ彼の行動に深い理由は無いのだ.
「だいじょぶ.私のローブはそんなに簡単に伸びたりしないから.でも,あなたは大丈夫なの?」
「気にするなって.困ってたんだろ?」
「それはそうだけど,でも,なんで?」
「別にそんな深い理由なんてないよ.別に困ってた人を助けるのに理由は要らないとも言うし.いや,そんなこと言うのは僕じゃないけど」
 実際深い理由などないアランはそういうのだが,少女はどうにも納得いかないのか何か考えているようだった.
「……わかったわかった.次の退屈な授業をサボる理由が欲しかったのさ.これでいいかい?」
 また適当なことを言うアラン.少女はさらに困ったような顔をしたが,ようやく諦めたようで,笑顔を見せて一言アランに向かって言った.
「ありがと」
 ――可愛い.アランは素直にそう思った.

 魔法学校の図書館というのは,いささか危険な場所だった.図書館には,本を閲覧しやすくするためと本を汚さないために,少し魔法で働きかけることにより本を浮かして自分のところまで持ってこられるような巧妙な魔法が仕掛けられているのだが,要するにそれが故に利用客が多いと本が頭上を飛び交うことになるのである.もっともここは二階なので五級以上の魔法使いしか上がってこられないわけだから,本如きでどうにかなるような一般人は居ないはずだが,逆に五級でも上がってこられることが危険度を上げる原因にもなっているとも言えた.
「こらっ.もう少し本は丁寧に扱えよ」
 アランは呆れた調子でそう言うと,落ちそうになる本を杖を軽く振って拾い上げ,本来いくはずだった方向へ持っていってやる.要するに扱い方が下手な者も中にはいて,突然頭の上の本が落ちてくるなんぞということもあるわけである.
「面白い仕掛けね.家にも張ってみようかしら?」
 後ろでは笑いながらそんな仕掛けをやすやすと使っている少女が居た.彼女が扱う魔法は本棚の本を連続して調べて行き,少しでも気になる内容があるとその本はひとりでに本棚を飛び出て少女の元へやってきた.そして少女の前で開くとまるでそこだけに風が吹いたかのようにページがぱらぱらとめくれていく.
「あー.でもちょっと大掛かりな魔法だからね.少人数で使うには利便性よりも維持の方が大変であんまり意味ないかもね……ととっ.もう少し練習してから遠いところの本取れってんだまったく」
 アランの方といえばどうにも飛び方が不安定な本の軌道を修正したり,突然誰かさんの頭の上に落ちそうになる本を拾い上げたり,床に激突しそうになる本を助けたりと色々忙しいようだった.
「そなの」
 本を探しながらで話を聞いているのかいないのか,少女は生返事を返す.
「僕は維持が必要な魔法は魔方陣に頼るのが一番だと思うね.宝石なんかに頼ってるからすぐ劣化するんだ.……今度の研究課題は図書閲覧魔法の魔方陣化にでもするか.床いっぱいに魔方陣描いてさ.ところで,……えーっと」
 後ろにいるはずの少女に声をかけようとして,そういえば名前を知らないことに気づいた.
 彼は本を拾うのを止め,少女の方に向き直った.少女の方はそれに気づいたのか,ぱらぱらめくっていた本をぱたんと閉じると,その本を元の場所に返した.少女は微妙にずれていた体の向きをアランのほうに向け,本は一度人の背の高さではぶつからない程度まで上昇し,後は本棚の間を縫うようにして目的地まで飛んでいった.
 アランは少女の方に向き直ったはいいが,よく考えたら自分は他人に名前をきいたためしがあっただろうかと思った.大抵相手から名乗ってきた気がする.どう聞いていいのか情けなくもわからなくなって混乱し,結局,次に彼の口から出てきたのはこんな言葉だった.
「あー.えっと.僕はアラン」
 最後に,君は? と一言付けるだけで十分名前を尋ねているように聞こえたものを,何故か彼の口からはそれが出てこなかった.おそらく彼は誰かが名乗ったら反射的に自分も名乗っていたのだろう.だが当の少女の方はそれが何なのか分かっていないようで,困惑した表情を浮かべて首をかしげた.と,その時――
 ばこん.
 ……軌道修正を誤ったらしい重く分厚い本の角が思い切りアランの側頭部に直撃し,彼は――不覚にも――よろめいた.だがさらに不覚かつ不幸なことに,二人は階段を上がってきたばかりで,要するに彼はそのままだと下り階段を転げ落ちることになるわけである.
「あ,危な――」
 もちろん彼は実力生なので,既に一級魔法使いでいたし,来年からはここの学校の教師に仲間入りする予定であり,要するに,そう簡単に階段を転げ落ちるような人ではない.自分でなんとかしようと杖から魔力を解放しようとした.
「――い」
 が,それよりも早く少女の手が伸びてアランの腕を捕まえたため,危うく落ちるところだったアランは少女の細い腕が支えることになった.少々予定は狂ったものの,アランは慌てて体勢を立て直して,元の位置に収まった.
「あ,ありがとう……」
 アランがそういい終えるか終えないかくらいのうちに,どうやらその問題の重く分厚い本の軌道修正を誤ったらしい生徒が駆け寄ってきて,二人の抱えている杖が遥か上級の一級であることを確認すると勢いよく頭を下げた.
「ごごご,ごめんなさいっ!」
「あ,ああ.いや,大丈夫.もう少し練習するように……あと図書館では静かに……」
 だがアランは上の空で間抜けな返事をしていた.彼は――不覚にも!――まだ彼の腕を握っている,少女の少しひんやりしていて柔らかい手の感触が思いのほか気持ちいいことにどぎまぎしていたのである.
 問題の生徒は理由はともあれこっぴどく叱られなかった事を幸運に思ったのか,もう一度頭を下げ,床に落ちた本を拾い上げるとまた走り去って行った.
「……あ,そだ.だいじょぶ?」
 もっとも,少女の方はアランが上の空なのは自分の腕のせいだとはつゆ思わず,本のあたりどころが悪かったのではないかと心配して,アランが体勢を立て直したことを確認すると手を離し,慌てて本がぶつかったあたりを診に回った.
「腫れてるわね.えと,こゆときは――」
 少女もアランもほぼ同じ背の高さで,アランの方が指三本分の太さくらい高いだけだったから,少女の視線はちょっと上向きがちにはなったが容易に本がぶつかったあたりを見ることが出来た.少女の指はどこまでも白かったし,アランの髪は黒かったから,少女の指はアランの髪の中でとても目立った.
 アランは少女の指が気持ちいのでそれはそれでまたどぎまぎすることになるのではあるが,ともかく少女は簡単な魔法を掛けて処置を終えたらしかった.
「これでいいかしら」
「ああ,ああ.いや,大丈夫……」
 とりあえず自分を落ち着けようとするアラン.
「……えと,アランさん? ところで,私に何か――」
「あ,いや.名前を聞こうと思っただけなんだ」
 とりあえず,落ち着けようとした努力は,まあ,無駄ではなかったらしい.大分いつもの調子を取り戻して,アランは言った.
「あ,ごめんなさい.リーよ」
 少女の方も,助けてもらったにもかかわらずずっと名乗っていなかったことに今更の様に気づいて,慌てて名乗った.
「ああ,リーさん」
「リーと呼んでくれて結構よ?」
「ああ,じゃあ,リー.とりあえずここの図書館は,階級ごとに階が分けられてるから,多分この階じゃそんな大した本は見つからないと思うんだ.一級魔法使いなら最上階まで見られる.いくかい?」
「いいの?」
 アランはそれに,もちろんさ,と答えて,リーを上の階に上るよう導いた.
「……それに,上の階のほうがここよりよっぽど安全だ」
 ぼそっと呟きはしたものの,今回だけは悪くない事故だったかもしれない,などと思ってしまうアランだった.

 魔法使いにその杖を突きつけられること――その恐怖が分かるだろうか?
 つまり,簡単に言えばそれは,手練れの剣士にその得物を首筋に突きつけられたようなものだ.相手の勝利宣言.少しでも動いたら,次の瞬間には首と胴体が離れているに違いないというそれである.
 だが魔法使いのそれはさらに恐ろしい.剣士に得物を突きつけられたなら,例えばその剣士が魔法を使えないと仮定すれば,まだ自分には魔法を使って反撃できる可能性がある.だが相手が魔法使いではそれすらできない.全ての自由を奪われた状態がそこに出来上がることになる.
 だから,より怖い.もっとも,自分に魔法という対抗手段がないのならどちらの恐怖も変わりはしないだろうが.でなければ,相手の魔法使いが自分より格下であるか.もっとも後者の場合はどちらも恐れる必要が無いということだが.
 では,竜にその爪を突きつけられたらどうだろう.世界を見守る種族,彼らがその爪を自分に突きつけるのなら,自分は何か世界に敵対している可能性が高いだろう.もちろんそうではないかもしれないが,いずれにせよ,竜になんらかの物理攻撃が効くとはあまり思えないし,魔法にしたって,有効な魔法は禁術とされる.その禁術が使えるのなら対抗手段はあるだろうか.爪を突きつけられた状態で? そりゃ,無理だ.ということは,いずれにせよ,同じか.
 ただ,相手の風貌だけに,魔法使いに杖を突きつけられるよりも恐怖を誘うかもしれない.そしてその爪が物理的に鋭利であることも.
 ――いや.
 彼は冷静に,否定した.例えば今の自分はどうだろうと考えてみれば,恐怖とかそういう問題でも無いことに気付く.こうにもなってしまうと,出来ることの選択肢が限られすぎてむしろ落ち着いてしまった.自分が変にこういう事態に慣れてしまっているだけかもしれないが.魔道士の杖を持って来はしたが,だからといって今になって禁術を使えそうな状況でもない.もっとも,竜に爪を突きつけられているだけあって既に自分は世界に敵対しているのだから,今更禁術のひとつも使ったところで何があるということでもないのかもしれない.いずれにせよ,多分この鋭利な爪は少しの魔法の行使も許さないだろう.
「解放されるのは千年の時の経ったあとだ.世界がそれを決める.千年の時が過ぎる以外に解放される余地は何一つとしてない」
 竜の発する声は妙だった.どこが妙かといえば困るが,何か不思議な違和感があった.だが意味は取れる.彼はそれに頷こうとして,やめた.竜の鋭利な爪先で喉元を傷つけてしまうのはなんとなく痛そうだったからだ.逆に鋭利過ぎてそれほど痛くないかもしれないが,こんなときにそんなことを試す気にはとうていなれなかった.
 千年の時.それは一体何を意味するのだろう.世界はどうするつもりなのだろう.だが,杖を持ちながらにしてこのまま居るわけにはいかないのだと.
 おそらく,自分の主観では千年など一晩程度の感覚でしかないのだろう.それでいい.別にそれでいいのだ.ここで妙なことをして爪に首を引き裂かれるよりは,多分,いいに違いない.そう,多分だ――千年も時間が経てばどうなっているかなどわかったものではないが.ただ,ひとつだけ心残りだとすれば――
 ――それは,娘を置いていかねばならないことだ.
 ――竜の爪が彼から離れると同時に,彼は透明で巨大な水晶のようなものに閉じ込められていた.そしてそのまま,静かに千年の時が過ぎるのを待つ.

 リーはスタンリーを椅子に座らせ,自分も座った.寝床の用意とやらは出来たのか,アランも奥の部屋から戻ってきて座ろうとする.
「あら,今日に限って夕食は作ってくれないの?」
「ええっ.お客様来てるのに僕なの.勘弁してくれよ」
 驚きつつ抗議の声を上げるアラン.
「いいじゃない.客観的な評価が聞けそうよ」
「そ,それはそうかもしれないけど」
「お願いね」
 リーが笑って手を振ると,アランは諦めて台所に向かった.台所といったところで別に仕切られた部屋があるというわけでもないが.
「いつも彼が作っているのか?」
「そうね.どちらかというと作らせてもらえないが正しいけど」
「作らせてもらえない?」
「なんかね,私より上手に料理が出来るまで練習したいんですって」
「そうだよ! 僕の料理はリーを越えるまでお客に出すつもりは無かったのに」
 台所から声が飛んできた.
「あら,越える越えないも無いわよ.私はアランの料理大好きよ?」
「い,いや.そういってくれるのは嬉しいんだけどね」
「まあ,いずれにせよ彼の料理は美味しいから期待してて良いわよ,スタンリー」
「僕はリーの料理を食べさせてあげたかったよ!」
 なんだか良く分からないが,とりあえずのところ二人とも料理は上手いらしい.
「別に,俺は自分で持ってきた保存食で十分なのだが」
「そんなこと言わないで.アランの料理食べてみてよ.美味しいことは私が保証するわ」
「ま,まあ,それはもちろん頂くことにするが……」
 なんていうか,こんな予定ではなかった.何か悪いような気がしてならないのだが,そんなスタンリーを見越してかリーが先回りをして言ってきた.
「あ,そうそう.だからって代金払うとか言わないでね.こっちが情けなくなっちゃう」
「そ,そうか……」
 ならば遠慮なく全部頂いておこうと腹をくくるスタンリーだった.
「それにしても,なんでここへ?」
「いや,仕事でこちらへ来ただけだ.確かエドの家がこのあたりだったと思って.そういえば,エドはどうしたのだ?」
「父さんは,今はここには居ないわ」
「一体どこへ行ったのだ? 仕事か?」
 リーは少し俯いて考えているようだった.何かあったのかもしれないが,スタンリーにはエドに何かあるなどという事態は少しも想像できなかった.
「……たぶん,あなたは二度と会うことは無いと思うわ」
「そ,そうか……」
 やはり何かあったのか.実に考えにくいことだが,よくよく考えてみれば妙に弱々しいところがあったような気は確かにしないでもない.
「で,スタンリー,仕事って言うのは?」
「あ,ああ.運び屋兼護衛みたいなもんだ」
 詳しく聞きだす前に話題を変えられてしまった.だが詳しく聞きだそうとしても無理な気はしていた.自分とエドの関係など14年ほど前に一度会っただけで,もう顔すら思い出せない程度なのだから.
「運び屋兼護衛ねえ」
「そういうお前らは何をやってるんだ?」
「魔法使いに決まってるでしょ」
 聞き返すも即答されてしまう.
「い,いや.それはそうだったが」
「まあ,もう少し言えば,アランは学校の先生やってるけど」
「……学校の先生,か」
 そう言われて台所の方を向くスタンリー.そこには料理をしているアランが居て,だが先生と言われて納得できるかといわれれば納得できるようで,そうでないようで,結局のところ良く分からかった.
 それにしても,魔法使いとは,本当に手足のように魔法を使うのだなと彼は思った.素材を切るにしろ火を付けるにしろ魔法を使うらしい.
「魔法というのは突然使えなくなったりはしないのか」
 ふと,疑問を口にしてみる.
「さあ.私は使えなくなったことはあまり無いわね」
「あまり,ということは,使えなくなったこともあるのか?」
「そうね,基本的に魔法使いは杖が無い以上魔法を行使することは出来ないわ」
「それはそうだったな」
「ま,もっとも.上級魔法使いなら,料理くらいなら予備の杖でも出来るし,その気になれば落ちてる木の棒でも,なんとかならないことは無いわ」
 スタンリーはなんだか見透かされているようで怖かった.

 朝もまだ早かったが,台所にはアランが居て,何やら汁物を作っているようだった.リーの方はテーブルの方で魔方陣と宝石を並べて何かしていた.
「ねえ,リー」
 スープを作る手はそのままに,アランが尋ねてきた.
「なに?」
 リーはそれに短く答えると,手を休めて顔を上げた.
「いや.スタンリーって言う人,誰かと思って」
「誰も何も,聞いていたんでしょう? 伯父よ」
「君の父さんの兄弟かい? でも,彼はザーヴィアの人に見えたよ.君の父さんは――」
「母さんよ」
 アランの声をさえぎって,リーは言った.また視線を並べていた宝石に戻し,魔方陣の上に並べる.
「え?」
「お母さんのお兄さんらしいの」
 アランの声は続かなくなり,しばらくの間アランが鍋をかき混ぜる音や,リーが宝石を並べる音が静かにその場を支配した.アランは粉状の何かを鍋に入れ少しかき混ぜると,杖を振って火を消した.
「さて,今朝のは一味違うぞ」
 アランはそう言って,出来上がった汁物を椀に注いでリーの居る席まで持ってきた.湯気を立てていかにも美味しそうである.
「いつもそう言ってるわね」
「いつもそうだろう?」
「そうだけど」
 もう恒例化したやり取りを交わして,リーはそれを飲もうとする.
「あったかい……」
 リーは椀に手を掛けて,ふと笑って言った.アランはそんな笑顔を見て毎朝自分は世界で一番の幸せ者であると確認するのだった.
「だが,今朝のはもうひとつ違うのだよ」
 何か自慢げにアランが言う.リーが椀を傾けて飲もうとするとした丁度その時,アランの次の言葉が続いた.
「今朝のは僕の唾液入りさ!」
「うっ」
 危ういところで椀を戻すリー.少しげんなりした表情でアランに食って掛かった.
「……今朝はいつになく気の効かない冗談ね」
「なんだ,口付けを交わす仲だし.今更恥ずかしがることなんかないじゃないか」
「そういう問題じゃないでしょ」
 そんなことをいいつつ,結局リーはそれに口をつけた.性質は悪いにせよ冗談だってことは分かりきっていたのだ.
「おいしい.で,今朝の一味は眠り草ね……って,私だからいいものの.お客に出しちゃ駄目よ?」
 少し苦笑して言うリー.アランは,冗談が無視されたためか,また一発で味を見抜かれたためか,多分両方だろうが,少しむすっとした顔をしていた.
「何ですぐ分かるんだ」
「あなた,眠り草入れられて分からなかったら大変なことよ? 今までのより一番分かりやすいじゃない」
「……そ,そうか」
「とても美味しいけどね」
「うーん.しかし味を追求すると奇抜なものは向かないのも事実だし……あ,でも量はちゃんと考えてあるよ.一般人には昼寝にちょうどいい位さ」
「ねえ,いつも思うんだけど.なんでまた私にばれない様な味なわけなの?」
「興味本位」
「……前も似たような答えを聞いた気がするわ」
「研究とはそもそもそういうものだろう?」
「そうだけど.あなたホントに学者肌ね」
「良い魔法使いの姿じゃないか」
 リーは,アヴェンもそうなりそうね,などと呟いて,飲み終えた椀を置いた.
「で,話を戻すけど」
 アランは改めて席に座ると,そう切り出した.
「君の母さんって?」
 リーは僅かに目を伏せた.
「私もよく知らない……」
 少しだけ沈黙が流れる.
「私もよく知らないんだけど.父さんはある女性を……その.排除するようにという命令を受けたらしくて」
 そして,その女性の最期の一言が娘に関する言及だったこと,その女性の兄がスタンリーであること,そして最期に,その娘が自分であるらしいことを言った.
「……本来の親子の関係,なわけか.てことは,本来のお父さんであるべき人は?」
「そこまでは分からないの.スタンリーも……知らないでしょうね.父さんはもしかしたらどこかで感づいていたかもしれないけど……」
「ふむ.ま,いっか.さて,どうやらスタンリーさんが目を覚ましたようだね」
 起きたんだか起こしたんだか怪しげだったが,アランは椀を手に取ると同時に立ち上がって,それを片付ける為に台所へ向かった.リーは体の向きを,スタンリーが寝ていた奥の部屋の方へ向けて,扉が開くと同時に,言った.
「おはよ,スタンリー」
「あ,ああ……おはよう……」
 扉の隙間からは少し戸惑ったスタンリーの顔が覗いていた.

「また面倒な階段だなまったく」
 確かに階段に掛かっている魔法は偏屈なものが多かった.掛けている人間が偏屈なのだろうから仕方が無いのかもしれなかったが.
「使う気失せるんじゃないかな,こんなの.えーっと……前来た時と違いやがるな.計算し直しか」
 ぶつぶつ言いながら経路と使用魔法を再計算するアラン.二人は最上階へ向かう階段,つまり一級魔法使いかどうかを試す場所に来ていた.
「一級魔法使いかどうか試すには,もう少し簡単な方法があるんじゃないかしら」
 さすがにリーもうんざりしたらしい.三級まではよかったものの,二級からは難しいというよりただ面倒なだけだった.
「ねえ,アランさん.これ,計算分割できるわよね.半分ずつやらない?」
 そんなことを提案してくる.
「どこで分割できるって……あ,そうか.じゃあ,僕は下をやるから.リーは,上を」
「わかったわ」
 結局,妙な魔法を解くのにしばらくかかって,お互い計算結果を交換すると,ようやく二人は最上階までたどり着いた.
「静かな場所ね」
 図書館の最上階は,確かに静かではあった.それはそうか,いくら魔法学校の図書館で,そこに居る人間が魔法使いばかりだったとしても,とてもではないが一級魔法使いがそう多く居るわけではない.
 そもそも一級魔法使いともなれば極端に数が少ない.仕事に困ることなど無く,王宮へ行けば良い待遇が得られるし,自前で稼ごうと思えばいくらでもなんとでもなるのだから,わざわざ学校に残ることは少しも無いのである.それでも学校にある程度の一級魔法使いが残っているのは,そこにいい研究施設と資料と自由に使える助手,つまり学生が居るからだ.
「……というか,僕らしか居ない」
 ともあれ,リーは魔法を走らせて本来の目的である本を探し始めていたようだが,数冊目を通して探すのを止めてしまった.
「目的のものは見つからない?」
「うん,でも……」
「でも?」
 聞き返して,アランは,リーが持つ杖は,ある方向を指していることに気付いた.どうやら図書館の支柱のようである.
「……あれ,中身,空洞?」
「え!?」
 柱の中身が空洞だって? それはまた随分奇妙な話である.アランは走り寄って柱を調べ始めた.
「確かに,空洞だ……ん?」
 妙な魔法仕掛けがあるらしい.と,いつの間にかリーがそれを横から覗き込んでいた.
「これ,もしかしたら,五芳星型の全属性封印かもしれないわ」
「え? いや,それ,機能しなかったんじゃ?」
 確かそんなことをやった気がする.五芳星型では全部かけても安定しないはずだ.それでは封印できないし外せない.
「ううん.いいの.上手く時間をずらせば出来たと思ったわ.やらせて」
 そう言うと,すっと杖を掲げて魔法を掛けていく.しばらくすると柱の一部が,あっさりと消え去った.
「……ありゃ」
 意外にあっさりと開いてしまって驚く.時間をずらすことで瞬間的に安定するらしい.
 それはともかく,図書館にこんなところがあるとはアランも全く知らなかった.もっとも図書館の最上階などそ数えるほどしか訪れていないのだが.
「んー.先生のへそくりでも入ってんのかな.それにしちゃ広そうだけどな……っと」
 興味本位で柱を覗くアラン.後ろからリーの声が聞こえてくる.
「多分,何も入っていないわ.でも,下の階まで続いてる.そうでしょ?」
 全くその通りだった.暗い穴が置く深くまで続いていて,照明魔法で照らしてみるものの,光が届く先ではよく分からない.
「うーん.良く分からないな.ずっと下まで続いてるけど」
「入っていい?」
 確かに人が入れそうなくらいの大きさではあるが,それにしたって入ってどうするのかという疑問はあった.だが何か真剣な表情でリーが尋ねてくるので,アランはつい深く考えずにいいと返事をしてしまった.すると,リーはありがとと一言呟いて,そのまま柱の中に身を躍らせてしまう.
「うわ……本当に行っちゃったし」
 そしてそんなことを呟いているうちに,開いていた場所はまたもとの通りに戻っていた.
「ありゃ.一人用かい」
 仕方なくアランも,リーのやったことを真似て開く.時間のずらし方がかなり難しかったが,それでも三度目で開くことができた.なるほど,少し考えただけではまるで無理と思えるような組み合わせで封印してある上,技術力が必要なあたり階段に掛かっていたよりも遥かに頭のいい仕掛けだと言えた.
 とりあえず声は届くだろうと思い,穴の中に向かって声をかけてみる.
「おーい.大丈夫?」
 すると,穴の中からリーの声が聞こえてきた.
「うん.何か,普通の図書室みたい」
 どこぞの先生がふざけて地獄に届く穴でも掘ってしまったのかとも思ったが,違うらしい.もっとも,それならわざわざ最上階の柱まで穴を引っ張ってくる必要はない気もした.
「……僕も行っていい?」
 ……結局アランも気になるのだった.
「どうぞ」
 穴の中からの声を確認すると,アランもその中に身を躍らせた.落ちていく間,そういえばあの仕掛けは中から開くのかな,などと,今更のように考えていた.

 アランの降り立った場所は,薄暗かったが普通の図書室であるようだった.天井から壁から床からびっしりと魔方陣が描かれている.そのなかで長い銀髪がゆれるのが見えた.
「……地下室」
 これは噂の地下室か.なるほど,噂には聞いていたがこんな風に隠してあるとは思いもしなかった.地下室と聞けば普通探すのは地階からだろう.だが落ちた距離を考えるとここはかなり深い場所のはずだ.地面に穴を空ければ簡単そうだが,ただでさえ深い上,あの天井の魔方陣がある限りそう簡単にここには来れまい.魔方陣が専門のアランでも知らない魔方陣もいくつか見られたが,とにかく強力な防護魔方陣であることは理解できる.描くのに相当の苦労を要したはずだ.進入防止と,あとは湿気や火気の防止が目的だろうが,それにしたって凄い念の入れようだ.
「……いいのかなあ.僕らこんなところに入っちゃって」
 頭の後ろを掻くアラン.責任を取るとは言ったが,妙なことにならなければいいが.部屋一杯に描かれた魔法陣のお陰で逃げるのも容易ではなさそうだ.
「ま,なんとかなるだろ」
 適当なことを言って自分も本棚を見て回る.古い本で文字が削れていたり,また文字が異形だったりでアランには読めないものが殆どだったが,それでも奇妙に呪いの本であるとか,儀式の本であるのか,確かに怪しげなものは多いようだった.
「あった!」
 と,奥のほうからリーの声が聞こえてきた.アランもそちらの方へ走っていく.
「んー.こんなところで目的の本が見つかっちゃったのかい?」
「いえ,ここへ来た直接の目的よりも大事な本当の……でも」
 リーが呟いたその時.
「誰だ!」
 入り口の方から声が聞こえてきた.
「あちゃ.見つかってる」
 それでもリーはまだ本を探していた.
「足りない…….一冊足りない…….一体どこへ……」
 だが入り口の方から足音が近づいてくる.四方八方この強力な魔法陣に囲まれていては逃げ場も無い.しばしの後,本棚の影から三人の魔法使いが姿を現した.おそらくこの学校の教師だろう.
「お前ら,こんなところで何をやっている!」
「あ,いや,これは,その……うーん」
 狼狽はして結局事態の説明がままならない.いや,狼狽していなくても事態の説明はままならないのだが.
「アラン!?」
「はい,アランです.……って先生」
 言って顔をしかめるアラン.どうやら知り合いの先生らしい.
「アラン.一体これはどういうことです?」
「あー.いや.そこの女の子がですね……」
 参った.まあ別に学校が下す処分くらいはどうでもいいのだが,リーがどうなるやら心配ではある.
「最後の一冊はどこ?」
 と思ったら,その女の子は凄い形相で教師三人をにらんでいた.
「一冊足りないわ.父さんの本をどこへやったの」
 教師たちは意味も分からないまま雰囲気におされてたじろぐ.それに詰め寄るリー.左手には杖を持ちそれを突きつけ,右手には保存状態の良さそうな本が二冊抱えられていた.
「……何のことだ? それよりも本を戻しなさい」
「馬鹿なことを言わないで.これは父さんの本よ.三冊あったはずなの.もう一冊はどこ?」
 教師たちは顔を見合わせる.
「いや,落ち着きなさい.とにかくここは……」
「出しなさい.出さないのなら力ずくででも貴方たちを眠らせて探すわ」
「わ,止めてくれ,リー!」
 アランの制止の声はほんの僅かばかり遅く,リーは教師たちの方へ飛び込んで行った.

 リーは教師三人に突っ込んでいくと,杖を振って左側の教師の腹に打ち込み,右側は脛を強く蹴飛ばした.そのまま勢い衰えさせずに杖を返して中央の教師の額を突いて,後ろに倒れたところを軽々と飛び越える.壁に手をつき勢いを反転させ直角に体を回転させると,今度はそのまま入り口の方へ向かって走っていった.
「お,おい……」
 あっけに取られた教師三人とアランだったが,アランは状況を把握しようとして教師たちを飛び越え,本棚の影から顔を出して入り口の方を覗いてみた.するとリーは丁度入り口にたどり着きそうなところにいて,とたんに静止した.すっとリーの目の前に白髪白髭のいかにもといった感じの初老の男が入り口の縦穴から降り立って,リーはその男の首筋に,杖の尖った方を突きつけて言った.
「王手」
 アランには初老の男は見覚えがあった.学長だ.長い白髪に豊かな白髭というあまりにもいかにも過ぎる風貌だとアランは思っていたが,と,言うか,そんな風貌のせいで初老に見えるが,実際彼はまだもっと若かったはずだ.しかしどうやら本人は好きでそうしているらしい.
「……で,いいのよね」
「ううむ.威勢のいい嬢ちゃんだの.こりゃ参ったわい.降参じゃ,降参」
 学長は杖を放り出して両手を力なく下げた.魔法使いが杖を捨てるということは,まず間違いなく言葉通りの降参を意味していた.魔法使いによっては魔法以外にも体術や剣術など心得ている者も居て,そういう場合には相手を油断させるための罠である可能性も否定できないわけだが,この学長の場合はまるでそうは見えなかった.
 それでもリーは杖を突きつけたまま尋ねた.
「もう一冊はどこ?」
「む?」
 学長は顔をしかめて視線を巡らす.目の前の嬢ちゃんは知的好奇心の高い魔法使いで,ここの禁書の類が欲しくなって持ち出そうとしていた現場,だと彼は思っていたのだが,そのリーが持っている本を見て気付いた.どうやらそういうのとは事情が違うらしい.
「なるほど」
 首筋に突きつけられている杖も気にせず学長は頷いた.そしてリーにしか聞こえないような小声で言う.
「そなたが魔道士オーヴェルの娘リヴィアか」
 だが,今度はリーが眉をひそめる番だった.
「……私はリーよ」
 で,次はまた学長が眉をひそめるの番.どうにも双方に認識のずれがあるようだ.して,そこで学長ははたと気付く.なるほど,あの魔道士は彼本人と娘の名を自分に語っておきながら,その娘本人にはどちらも語らなかった,ということらしい.なんと紛らわしいことをする奴か.これではまるで別人という可能性が否定できない.
「……ううむ.困ったものじゃ.とりあえず落ち着きなさい,リーとやら.そなたの求めるもう一冊はわしが持っておるぞ」
 リーはしばらく学長を見た後,確認するように言った.
「ちゃんと渡してくれるのね」
「うむ,まあ,今はなんとも言えぬがな.そなたが本当にその本の持ち主だった者の娘であるのなら,渡そうぞ」
 リーは少し迷ってから,突きつけていた杖をはなした.
「……お父さんを知っているの?」
「まず間違いなく,な」
 学長は先ほど放り投げた自分の杖を拾って,頷いた.
「……お父さん……」
 リーは俯いて,少し寂しげな声でそう呟いた.
 彼女は何も言わなかった父親を少しばかり恨んだ.まるでどこへ行ったのかも分からない.どこにいるのかも分からない.ただ二度と会うことは無いとそれだけ言って,自分を置いて出て行ったのだ.
「お父さんのこと,知ってるのなら.何でもいいです.教えてください……」
 リーは態度を一変させてそう懇願する.
「そうだな.出来うる限りのことは教えよう.だがわしは大したことは知らぬぞ」
 目の前のこの男は,少しは何か知っているだろうか? 手掛かりが父親の残した三冊の本だけだったのに比べて少しばかり先が見えたような気はしたものの,どれだけ期待できるのかなどは全く分からなかった.
「アラン.入り口の仕掛けを解いたのは君か?」
 学長は,始終良く分からないといった顔でこちらを眺めていたアランに言った.
 少し呆けていたようなアランは,はっと目が覚めたようにびくりとして,慌てて答えた.
「はい.いえ,その女の子が開け方を知っていたようです」
「そうか」
 学長は頷くと,入り口の方へ向いた.
「だがもう開け方は分かっているな? 内側からも同じ方法で開く.あとでわしの部屋に来い」
「はい……」
 アランの返事を確認すると,学長は浮遊の術で入り口の縦穴を登っていった.そしてその後をリーが追う.アランは周りを見て,教師三人がようやく立ち上がったのを確認すると,お先に失礼しますとお辞儀をしてから入り口の方へ向かおうとした.
 が.先に行ったリーはローブ姿で,たとえ暗がりとはいえそれを下から追いかけるのは色々失礼だよなとか馬鹿げたことを考えて,止めた.

 学長の部屋は至って質素だった.中央に机.それだけ.基本的に普段はそこに座っているはずなわけだが,どちらかというと彼は外出している時のほうが多かった.床は贅沢にも絨毯が敷いてあったが,それほど新しいものでもないようだ.右手奥に扉も見える.あとは日除けの為の布が下ろされた窓が机の背後にある.もしその窓から光が入ってくるようなら,逆光で机に座っている人間は半ば見えなくなる気もするが,もしかしてそれでいいのだろうか.
 学長が振り返ると,そこには神妙な,というよりはむしろ真剣な面持ちのリーが居た.まるでさっと部屋の中を一通り確認した後のような表情.もっとも実際その通りだとしてもおかしくなかった.魔法使いは困ったことに,そういう普段からの警戒のようなものが染み付いしまっていて抜けない.
「リー,と言ったか」
「はい」
 学長の方を見てそう答えるリーの胸の前には,杖よりも大事そうに二冊の本がしっかりと抱えられていた.いや実際に杖よりも大事なのだろう.そしてその目は,早く三冊目を出せと語っていた.
 長い銀の髪.綺麗な白い肌.済んだ青い目.真っ白のローブに白の腰帯.杖は木で出来ていて,先には青い宝石が取り付けられていた.どうやら多重属性らしく,それより少し下に,ぱっと見ではわからないが小さな銀色の玉も付けられている.少女,と言ってやって構わない年頃なのだろう.しかし少女と呼んでよいのか分からない大人びた雰囲気は,まるでアーノルドと名乗ったどこか子供じみた青年のようだった.
 アーノルドと名乗った青年はそのあと,自分の名はオーヴェルだと言い,これは魔道士として受け継いだ名前で,同じように魔道士を受け継がせるために娘を引き取ってその娘にはリヴィアと名付けたが,魔道士は自分で終わりにしたいし自分の罪も償わなくてはいけないから世界に会いに行く,だから大切な三冊の本を預かって欲しいと押し付けて出て行った.引き受ける理由は無い上に断る理由ならいくらでもあったが,部屋を出て行くときに振り返って一言よろしくねと言って笑った顔が今でも忘れられない.やっていることはまるで子供だった.でもその笑顔には子供では持ち得ない何かがあると思った.
 学長はきびすを返して奥の扉へ向かった.取っ手に手をかけ,だが開けずに振り返った.リーと目が合った.学長は尋ねた.
「その本の題名は何だね?」
 リーの顔色がさっと変わった.彼女の狼狽振りは手に取るように分かった.
 彼女は完全にこちらの意図を汲み取ったようだ.要は試しているのだ.お前は本当にあの青年の娘なのかと.それを証明してみせよと.
 少しの間.二人の間は廊下から聞こえる雑音が支配した.多分彼女は色んな事を一瞬にして思考したはずだ.ここで答えられなければ本は渡してもらえないのだろうか.渡してもらえなかった場合は,やりたくはないが目の前の白髭をどけて強行突破するしか方法は無いだろうか.命を奪わず動きを封じる方法のうちどれが有効だろうか.反撃には何が来るだろうか.その際の適切な応対はどれか.その前の返答方法はどれがよいか.強行突破の前にすべきことは何か.少しでも自分が優位に立つにはどうすれば.
 意を決したのか,リーが口を開いた.
「分かりません.少なくとも表紙や背表紙には何も書いていなかったように記憶しています.封印を解くことは出来なかったので中までは見ていませんし,表紙の――」
 学長ははじめの一言だけを聞くと,あっさりと扉を開けて,中からひとつの箱を取り出してきた.残りの言い訳じみた,だが本を手に入れるために有効な手段だと判断したであろう言葉の羅列は殆ど聞いていなかった.
「開けて確認するがよい.そなたの欲しがっていた本かどうかな」
 そう言って,学長はその箱を机の上に置いて,数歩退いた.渡してもらえなかった場合の予測思考が全て霧散して少しばかり拍子抜けしたようだが,またすぐに真剣な表情に戻った.箱の中身は本物だろうか.罠ではないか.そんなことを考えたのだろう.
 リーはひとまず抱えていた本を箱の隣に置くと,一通り箱を調べて,それを開けていった.手つきは慎重だったが,どこかもどかしさが感じられて微笑ましかった.まるで小さな子供のようだ.何か贈り物を貰って中を楽しみにする子供のような,そんな開け方.きっと,本を守るために施してある保護魔法ですら,邪魔以外の何者でもないに違いない.
 開け終わって,保護魔法も解き終えて,中に収められていた赤い表紙の本を取り上げてそれを何度かひっくり返して確認すると,
「やっと見つけた…….お父さんの本……,やっと…….お父さん……」
 リーはそれを胸に押し付けるようにして腕に抱えて,うずくまって泣き出した.杖すら放り投げて.嗚咽の声を漏らして.
 しばらくの間.
 父を失った女の子が机の前で泣いていた.

 言われた通りに学長の部屋を訪れたアランは,扉を数回叩いてから開いた.閉まっていた時は全然聞こえなかったのに,突然女の子の泣き声が聞こえて彼は少しうろたえた.
 泣いている女の子は正面の机の前.一瞬誰なのか全然わからなかった.むしろ知っている人であることに気付いて驚いた.白い少女.さきほどリーと名乗った.
 学長はその右側で,毎度ながら謎の扉のあるところだ.学長はめったに学外に出ないから,おおむね学長の寝室を兼ねる私室あたりだろうとアランは見当を付けていた.そうでなければ真面目に寝泊りできるような場所は無いのだ.わざわざ毎晩身を隠して外に出る必要もなかろうし.
 それにしても同じ部屋に泣いている人間が居ると言うのはなかなかどうしていいのか迷うものだ.というか非常に困る.さらに言うとアランはその原因すら分からなかったし,なおさら何をしていいのやら分からない.
「ああ,アランか」
 学長は割と落ち着いているように見えたが,それは多分,泣いている理由を知っているからなのだろうと思った.
「アラン.渡すものがある」
 が,そう言って奥の部屋に入っていってしまったところを見ると,もしかしたら彼も困っていたのかもしれなかった.いや,違うか.泣いているリーが困るだろうから,二人は退出せよということなのかもしれない.
 いずれにせよ,何をしていいのやら分からなくなっていたアランは,呼ばれたのかどうかもよく分からないにもかかわらず奥の部屋へ向かった.入って扉を閉めると,聞こえていた泣き声は完全に閉め出された.何か,少し悪いことをしたような気分になる.
 結局,奥の部屋は寝室を兼ねる私室で正しかったらしい.寝台に食器棚に台所,一通り生活のために必要なものはそろえられているらしく,実際のところ割といい環境なんじゃないだろうかと思った.少なくとも今アランが住んでいる家なんかよりは良さそうだ.どちらかというと学校から出なくてすむことが利点か.遅刻しなさそうで良さそうだと思ったが,もっともいくら学校に近くなっても得てして遅刻とはするものである.
「アラン.新しい杖だ.教師証明の.ただし気に入らなかったら自分で作り直して良いぞ.わしのところへ持って来れば証明刻印してやる」
 そう言って,学長は杖を投げてよこした.反射的に受け取って,果て自分は何故ここに着たのかと思い出した.泣き声のせいですっかり忘れていた.
「あ,あの……?」
 てっきり勝手に地下図書室に入ったことのお咎めなのだろうと思っていたのだが,違ったのか.
「それと,あの図書室だが」
 が,そんな話題になったようなのでやっぱりかと思って居住まいを正すアラン.
「あの封印が解けるなら閲覧は自由だ.だが図書の持ち出しは禁止,そこで得た知識の管理も自己責任で行うこと」
 と思ったら.なんか普通に良いらしく拍子抜けした.もっとも,ある意味自分ならどうにでもなるだろうという自信も無いわけではなかったのだが.
「……アラン」
 また呼ばれて,肩透かしを食らった後だったので,もう一度姿勢正しなおした.
「教師の杖を与えたからには,お前はもうどの講義にも出席する必要は無い.だがそれとは全く無関係にひとつ頼みたいことがある」
 しばらくの間,学長はアランを見たまま何も言わなかった.
 アランはそのまま学長を見返して,続きの言葉を待った.
「……いや,いい.わしが与えるのは講義に出席する必要がないという事実だけだ.新年明けたらまた学校に帰ってきてくれると嬉しい.だがそうでない場合はわしに一言言いに来てくれ.学校としては優秀な教師を手放したくは無いが,それでも個人の自由を縛るつもりは無い」
「……?」
 学長の言葉の意味が取れず,アランは眉をひそめた.一体何を言っているのだ? 講義に出席する必要は無い.それはいいとして,学校に帰るだのそうでない場合だの,まるで自分は学校から出て行くみたいではないか.そんなつもりは一切無いのだが,そんなふうに聞こえて戸惑った.
「ところで」
 アランは悩んだまま,また聞き返すことも出来ず,学長が話題を変えた.
「その杖の出来はどうかね?」
 僕の新しく考えた遊びはどうだ面白いかと言わんばかりの子供っぽい笑顔で学長は聞いてきた.一瞬戸惑ったが,アランはいたずらっぽく笑って杖を軽く振ると,学長の周りに光の粉がさっと舞った.
「最高ですね」
 そう言って,アランは昔の杖を,学長に投げて返した.

 新しい杖を貰って部屋を出たら,そこは泣き止んだらしいリーの姿があった.本を胸元に抱え,机の後ろにある窓から外を眺めているようだった.
 アランが出てきたことに気付くと,リーは体ごと回転させてアランのほうを向いた.さっきまで泣いていたのだから,もしかしたら顔を見るのは失礼かもしれない,そんなことを思って目をそらしかけたが,別になんてことはない普段の顔だった.ただ,どこかその青色の瞳に違和感を感じるのは,気のせいではないと思った.ずっとこんなだっただろうか,少しばかり考えはしたものの,実際出会って間もないアランには分からなかった.
「えっと」
 アランは口を開きかけて,何を言っていいのやら分からなくなった.そういえば彼女は図書館に入りたがっていただけで,どうやらその目的は達成したらしいから,自分との繋がりはもう無いような気がした.このままさようなら.それで十分だ.多分.
 だがリーが動かないのを見て,ようやくその視線に気付いた.どうやら学長から貰った杖が気になるらしい.銀色をした金属製の杖で,先は丸く膨らんでいた.それより少しばかり下のほうに三つばかりちいさな金色の金属円盤が埋め込んであって,芯の部分はまばらだが精巧な模様が描かれていた.そして持ち手の部分には包帯状の布が巻きつけてある.
 とりあえずのところ,普通の杖だった.魔法使いの杖といったら,こうやって師匠や先生から渡されるか,でなければ自分で作るものが殆どで,そういった杖は使用者に良く合うように作られている.そういう意味では杖とは全て珍しいといっていいものだが,それでも普通にある杖と大きく違って奇抜であるだとかいうことはない.特に珍しがるものでも無いような気がした.
 そこまで考えてようやく,気になっているのは先ほど持っていたのと違うということなのかもしれないと思い当たって,アランは慌てて説明を付け加えた.
「ああ,えと.僕は来年からここの学校の教師になるんだ.それで,教師用にってことで,新しい杖を」
 その言葉に反応したのか,リーは顔を上げてアランを見た.少しばかり不思議そうな顔にアランは戸惑った.何か変なことを言っただろうか.
 だがすぐ後にその表情は消え,今度は何かに気付いて少しばかり慌てたような顔で,言った.
「あ,おめでとう」
 一瞬,なんのことか分からなかった.が,その言葉がどうやら自分が教師になることに関しての祝辞であるらしいことに気付いて,苦笑する.
「いや,別に,そんなこと言われるような事じゃないんだ.別にここの教師になったからといって別に凄いことなわけじゃなし――」
「どの口がそれを言うか.教師の最年少記録を2歳くらい更新しとるぞ」
「でも,それはなんていうか,学長の気まぐれみたいなもんだし――あ」
 思わず続けてしまってから,その発言が後ろに居る学長のものだと気付いてアランの動きが止まった.
「わしが気まぐれで教師資格をやると思うかね?」
 アランはそれを笑って誤魔化した.
「まあ,謙遜するのを止めはせんが」
 学長はそこで打ち切って,リーの方を向いた.
「ところで,リーよ.そなたの父親は,そなたの名も一緒にわしのところへ置いていったようじゃぞ.まったく重大な責任を押し付けていきよったものじゃ」
 かなり呆れた調子でぼやく.リーはそれを聞いて,緊張気味の面持ちで学長を見た.
「じゃが.残念なことに,それ以上のことは何も言えそうに無い.申し訳ないがな」
 リーは,表情も態度も変わらなかった.でも,アランにはリーが落胆したように見えた.少しも動かない表情が,むしろそれを語っているように見えたのだ.
「さて,リーよ.魔道士は名を持つ.意味は良いか」
 リーは頷いた.では,と,学長も頷いて続けた.
「そなたの名はわしが既に言った.分かるか」
 リーはしばし黙ったまま動かなかった.しばらくの後,何かに思い当たったらしい.強い無表情で,ゆっくりと頷いた.
 ――魔道士オーヴェルの娘リヴィア.
 それが,父親と自分の名であるらしかった.

「うっ……」
 右手の指に強く焼かれたようなひりひりした痛みを感じて,リーはその右手を反射的に引き戻した.視界が暗いのはまぶたが閉じているからだ.なんとか現状を把握しなければならないと彼女は思った.引き戻した右手の感覚は何かおかしかったが,左手はなんとか正常のようだ.しかし普通手放さない杖は握っていない.いつ離してしまった? どこにある? 左手を動かして,今の自分の状態を探った.地面は砂だ.砂か,小石.砂を掻き分けるとそう深くないところに硬い岩のようなもの.そこに自分はうつ伏せになっている,らしい.
 ひたすらに力の入らない体に無理を言わせて,彼女はようやく上体を起こすことに成功した.少しずつまぶたを開いていくと,やけに強い日差しが目に入ってくる.左手で目を擦り,何度か瞬かせて,ようやく光に慣れてきた.それでも視界がはっきりしないような気がする.だがまず自分の状態の確認.
 右手.火傷のような痛みだと思っていたら本当に火傷のようだった.赤くなって腫れてしまっている.杖があれば,応急処置くらいは出来たかもしれない.ひりひりした痛みがずっと続いて,リーは顔をしかめた.かなり汗もかいたらしいし,しかも砂の上に居たから,いつもの白いローブは薄汚れていた.だが,それとあまりにも酷く違う不健康なまでの白い自分の肌を見て,ようやく,杖が無いせいで水の加護が失われていることに気付いた.いつもならそんなことないのに.どうやら,思考能力も大分緩慢になっているようだ.
 ……というか,暑い.
 酷く暑かった.思考が緩慢なのはそれのせいもあるかもしれなかった.もっとも,素直に自分の調子が悪いことは否定できない.体中に力が入らないため,全体の動作も緩慢なまま,リーはあたりを見回した.
 沙漠.
 ただひたすらに乾燥し,岩と砂の支配する不毛の世界.
 ――そうか.そうだった.
 父親の本.世界の気まぐれに対抗し得るものは世界の気まぐれだけだ,ということが書いてあった.他にもいろんなことは書いてあったけど,でも要約すると,言いたいことはそういうことだったのだと思う.だから沙漠に来た.世界の代弁能力を与えられた竜に会うために.そして,そこに父親も居ると,根拠の弱すぎる確信と共に.
 そして,それから,巨大な蜘蛛に襲われた.馬鹿げた甲殻を持つ巨大昆虫に対して何が有効なのか分からなかったのも,足元の砂が安定しなかったことも,夜の寒さも昼の暑さも,砂嵐も,全部リーの敵で,蜘蛛の味方だった.沙漠でもやっていけるようにと思って,環境維持魔法のために幾つか宝石を持ってきていたが,蜘蛛を追いやる為に全部使ってしまった.そのまま,どうなったのか分からない.その時に,杖も一緒に離してしまったのかも知れない.色々不運だったのだ.そう思いたい.
 そこまで思い出して,かなり絶望的な状況な気がした.だが,本当にそうなら,実際自分はこうして目を覚ますことは無かったはずだ.蜘蛛に襲われたときかなり日は落ちていたはずだ.どれだけ気を失っていたのか分からないが,今,日が昇っている以上は,少なくとも一夜は極寒の夜を過ごしているはずだ.でなければ,時間が逆戻りしたか.
 ありえない.
 では,杖も持たぬ自分はどのようにして夜を過ごしたのか.何かの保護を得た.ではその保護は何か.彼女は改めて自分の周りを見回した.
 なるほど.なにか魔方陣が張ってあるようだ.大体は円形だが少しいびつな形をしている.日差しと直接の熱や冷気からの保護だろう.その魔方陣の中に自分は居たらしい.そして,寝返りでもうったのか,その拍子に右手が魔方陣の有効範囲から出てしまったのだろう.水の加護と魔方陣の保護を失った白い肌は,自身を陽光から守る手段を持たず,すぐに焼かれてしまう.沙漠の強い日差しではなおさらだったに違いない.
「くっ……」
 事実,ひりひりと痛んで,彼女は右手を包み込むようにして押さえ込んだ.
 ふと顔を上げると,沙漠陽炎の向こう側に,こちらへ歩いてくる人影を見た.杖を二本持っているように見えたのは,陽炎のせいか,目がおかしいせいか,それとも,事実か.
 とりあえず,動きたがらない体を叱り付けて動かして,すぐ近くに出っ張っていた岩に手を付いて立ち上がった.どうやらその岩の陰に寝かされていたらしい.が,せっかく立ったにも関わらず,そのままその状態を維持できずに,リーはそのまままた,砂の上にぺたんと尻餅をついてしまった.
 立ち上がった時に上から見下ろすことになった魔法陣は,どこか,見たことのあるような雰囲気をしていた,ような,気がした.

 沙漠っていうのは,とにもかくにも,怖いところだった.もっとも,魔法使いにとっては比較的暑さや寒さはなんとかならないこともない.特にアランはそういったことに対抗するための魔方陣を扱うことに長けていたから,辛いことは間違いないとはいえ一般人に比べれば遥かに問題は少なかった.先を行く白い魔法使いの少女との差を少しずつ詰めてこられたのも,魔方陣という,こういうことに関しては極めて高い効果を発揮するものを持ってこそだった.
 が.
 残念なことに沙漠に生息する巨大生物に対抗する手段は持ち合わせていなかった.先を行く少女に予定よりも早く追いついてしまったのは,結局のところ,民家ぐらいはあろうかという巨大な蜘蛛が,その少女の行く手を阻んでいたからだった.
 何か,何か無いか? 巨大な蜘蛛から身を守る手段.巨大な蜘蛛を退ける手段.ああ,何でもいいから――
 専門馬鹿.それに尽きた.魔方陣の扱いにいくら長けていても,その他はあまり得意ではないアランは,全くといっていいほど有効な手段が思い浮かばなかった.学校で喧嘩はしたが,さすがに蜘蛛を召喚してけしかけてくるような奴はいなかったのだ.これが人間相手なら対抗する魔方陣をいくつも知っているのだが.
 とりあえずまだ蜘蛛は自分には気付いていないようだったから,今から身を翻して逃げれば逃げ切れるだろうが,いくらなんだってようやく追いついた少女を見捨てるわけにはいかない.
「リー!」
 加勢出来ぬと分かっていながらも叫ばずにはいられなかった.ただ,当のリーはそんな声には少しも気付いていないようだった.
 蜘蛛から噴き出される糸がリーを絡め取ろうとする.リーは糸が迫り来るたび杖を振り上げそれを弾き返していた.いや,実際には障壁魔法を断続的に展開しているらしかった.アランにはその魔力力場が青白く透き通る盾のように見えていたし,糸がぶつかる度に石でもぶつかるかのような音も聞こえていた.
 全身を包むような障壁魔法が展開されていないのは,おそらくそれでは防ぎきれないとの判断と,展開し続けることによる浪費を防ぐためだろう.リーはまるで踊るかのように杖を回転させ,持ち替え,適宜適切な時間かつ適切な場所に魔法を展開していたが,足元が砂で不安定なのも手伝ってか,少しずつ押されているようだった.一度でも失敗して弾くことができなければ,その先がどうなるかなど明らかである.
 そんな動作を続けたまま,リーは何かを取り出していた.いや,遠目に見ても,魔法を維持するための宝石であることはまず間違いない.それをどうするつもりなのかと思ったら,リーはそれを蜘蛛に向かって投げてしまった.そんなことをしたとて蜘蛛を退けられるとはとても思えないし,そしてなにより,あれは沙漠の中を移動するためにどうしても必要なものではないのか.
 投げられた宝石は,蜘蛛に上手く当たらず,砂の上に落ちた.落ちると同時にそのあたりの砂を硬化させたあたり,さすがに投げた本人も何か細工をしたらしい.もっとも,そうでなければ,沙漠の中では半ば命とも言える維持石を投げたりはしないだろうが.
 リーはもうひとつ宝石を投げた.今度は蜘蛛の右の前足に当たり,その足を潰した.が,まだ残る足で十分な活動が出来るようだった.前と変わらぬ,むしろ激しくなった攻撃に,リーは下がりながらもなんとか弾き続けていた.
 最終的に,リーは五つの宝石を投げ,蜘蛛は三本の足を硬化させて,ようやく蜘蛛は撤退の様子を見せた.のだが,最後に蜘蛛が捨て台詞とばかりに噴き出した糸がリーを目掛けて飛び掛り,リーは目測を誤ったかそれとも既に防ぎきる余力などなかったのか,なんとか避けるように身を動かしたものの,ものの見事にその糸は杖にぶつかり,吹き飛ばした.疲弊していたリーに対してはかなりの衝撃だったのだろう.リーはそのまま地面に倒れ,動かなくなった.
「リー!!」
 沙漠で倒れたら.いくら魔法使いといえどその命は絶望的だ.まして杖を持たない以上は一般人とさして変わるまい.アランは何も出来ず硬直していた状態から解き放たれ,砂に足を取られながらもリーに駆け寄った.
「リー! リー!」
 応えはない.息はあることは間違いないが,だからといってこのままでは死んでしまう.アランは動転する気を持て余しつながらもリーを抱え上げ,あたりを見回した.幸い岩が砂の上に覗いていて,片方からの砂風は防いでくれそうだった.もう片方は自分の魔方陣でなんとかしてやればいいと判断するとアランはそこまでリーを連れて行き,リーを横たえると,すぐさま砂の上に魔方陣を描き始めた.
 砂の上では魔方陣は定まらない.よって,結局アランは空中に描くのと同じ要領で魔方陣を描いた.いずれにせよ今まで自分が沙漠を歩いてきたときと殆ど同じである.まずは気温維持.それから砂風に対抗するための陣を,岩が無い側に.それなりの時間を掛けて緻密な魔方陣を描き上げたら,それは少しばかりいびつな形をして見えた.二重に描けば仕方がない.
 そして,夜が訪れようとしていた.目的の少女がここにいる以上,移動する意味は無い.アランはリーの隣に横たわり眠りに就いた.
 緻密な魔方陣は夜の間二人を守り通した.
 朝が来てアランは目を覚ましたが,リーはまだ気付かないようだった.起こすのも可愛そうだったのでそのままにした.そこでリーが杖を持っていないことに気付き,そういえば蜘蛛に飛ばされたのだっけと思い出す.これから陽が照ってくるとなると気温維持だけでは良くないと思ったアランは,さらに日除けの陣も描き加え,その後リーの杖を探しに出た.
 飛ばされてすぐに探せばよかったものを,どうやら杖は砂に埋もれてしまったらしく,探し出すのにはかなり苦労することになった.

 ようやくリーの杖を探し出して帰ってきたときには,どうやらリーは目覚めていたようだった.まだ遠目で見づらいが,すぐ隣にある岩に手をついて立ち上がろうとしている.かなり疲弊している様子で,せっかく立ち上がったかと思ったら,一瞬ふらりとして,すぐに尻餅をついてしまった.
「うわ……」
 かなり慌てたアランはその場から駆け出した.あの様子ではかなり参っているはずだ.少なくとも杖くらいは渡してやらなくてはいけない.
「リー! 大丈夫?」
 後もう少しというところでリーに声を掛ける.リーは少しだけ顔をこちらに向けて,またうなだれてしまう.唐突に,アランはもしかして魔方陣が弱っていないかと心配になった.
「リー.大丈夫かい?」
 リーからの返事は無かった.とりあえず杖を差し出すと,リーはそれを弱々しいしい手つきで受け取った.すぐさま何か魔法を使ったらしいのだが,アランにはそれが何なのか良く分からなかった.多分身を守るためのものなのだろうが.
「本当に大丈夫?」
 なんとなく返事が無いのは分かっていたが,もう一度尋ねてみた.やはり返事は無い.
 そういえば,魔方陣内部にもかかわらずかなり気温が上がっていることに気付いた.多分外よりはましだろうが,魔方陣もかなり弱まっているのかもしれない.何か固定媒体に描いた魔方陣ならそれほど劣化の心配はしなくてもいいのだが,なにせここには線を引いてもすぐに流れて消えてしまう砂しかないのだ.空中に無理に固定した魔方陣は,魔方陣そのものよりも,魔方陣を空中に固定する力が流れてしまうのが問題だ.
「あ,なんか魔方陣かなり薄れちゃってるね.描き直さな……」
「……どうして」
 アランが立ち上がって魔法陣を描き直そうとしたとき,リーの呟く声が聞こえた.
「え?」
「……どうして,あなたがここに」
「え,いや,学長が,君が沙漠へ出るって言ったから,追いかけてきたんだ.なんか,学長が言うには,沙漠はかなり……」
「……どうして」
「ん?」
 また,どうして,が続くのに対して,アランはなんと答えれば良いのか良く分からなかった.少し迷っていると,続く声が聞こえる.
「……どうして,私を追ってきたの」
「そりゃ,君を心配して……あ,もしかして迷惑だった……?」
 そうだった.沙漠へいくだなんて無茶すると思ったから勝手に心配して追いかけただけだった.一人で何かしなければいけない用事だったのかもしれないし,迷惑かもしれないなんて少しも考えなかった自分の思い上がりを嫌悪した.でも,不安を煽るような言い方をした学長も学長じゃないか.
 リーからの返事が無いところをみると,もしかして本当に迷惑だったのかもしれない.参った.ただ,なんとなく追いつければいいなと思ってた.もちろん,沙漠では自分の魔方陣が役に立つだろうとか,そんな漠然としたことは考えてた.だけど,本当はそんな理由ではなかったような気がする.
「と,とにかく.魔方陣,描き直すから……」
 そう言ってアランは立ち上がって,古い魔法陣を補強しにかかろうとした.
「……まって」
 が,リーの制止の声が聞こえて,振り返った.
「何?」
「……ありがと.でも,もう,私,行くから……」
 魔方陣の補強はしなくてもいい,という意味だろうか.
「……行くって,でも」
 リーは杖をついてゆっくりと立ち上がった.岩陰に置いてあった軽そうな荷物を自分のだと認識すると,それの紐に指を引っ掛けて拾い上げる.
「環境維持の宝石,まだあるの? ……あ」
 そこまで言って,自分が加勢できていればそんなことにならなかったのかもしれないと思った.
「ご,ごめん,見てただけで……でも,蜘蛛に対抗する手段なんか思いつかなくて.その,人間相手だったら,ほら,えと……」
「いいの.仕方ないわ」
 またリーがアランの声を遮った.
「何度もありがと」
「ちょ,ちょっと待ってよ! 魔方陣描ければ,石を温存できるよ.また何かあるかわかんないし.魔方陣分かる? 分からないなら,描き方くらいなら教えられるかも」
 また礼を言って行ってしまおうとするリーを,慌てて呼び止めた.別に呼び止める理由なんて無い.もしかしてそれすらも迷惑かもしれなかった.でも,ただ……そう,ただ,この少女の傍に少しでも長く居られたら――
 リーは魔方陣のすぐ端に立って,くるりと体ごと向きを変えてこちらを見た.何も言わないのを見て,やっぱり迷惑だったかな,と思った頃,リーが口を開いた.
「それ,すぐ描けるようになる?」

 尻餅をついて,とても自分が情けなくなった.そんなに酷い行動はしていない.そう思うのだけど,実際に動かないものは動かないので仕方がない.
 それにしても.
 あの魔方陣はどこかで見たことがある.一瞬だけ見渡せた少しいびつな魔方陣.でも,良く考えたら自分は魔方陣を描く人なんて見たことがなかった気がする.そうだ,魔方陣そのものではない.見たことのある魔方陣なのではなくて,ただの雰囲気が,なのだ.
「リー! 大丈夫?」
 ――魔方陣の主の候補として,ひとつの顔が思い浮かんだ.
 その人がいる.何故か彼女はそう思った.声のしたほうを見ようと首ごと回して,杖を二本持っている人を見つけ,そしてその人が自分の思い浮かべた人だと半ば確信して――
「!」
 そこで,自分に足りないものに気付いた.水の加護が効力を成していない.異常なまでに白い肌と,そして,不気味な赤い瞳が,むき出しのはずだった.慌てて首を引き戻した.だがもしかしたら見られてしまったかもしれない.
「リー.大丈夫かい?」
 見られた? 瞳の色について尋ねられないのは,気付かれていないから? それとも,気付いたけれどそれは後回し?
 憶測が頭の中を駆け巡って,そこでその人が杖を差し出してくれていることに気付いた.自分の杖,のように見える.違うかもしれなかったけれど,今はそんなことを疑って受け取らないのと,その杖がなんらかの罠であることに大差はないように思えたので,少なくとも自分の杖である可能性を取った方が良いと判断した.
 あまり首を動かさないようにして,目を見られないようにして,杖を受け取った.不自然かもしれないと思った.思ったけれど,まだ気付かれていないのであれば隠し通さなければならない.
 杖は,良く手に馴染んだ,自分のだった.どんなに疲れていても使わなければならない魔法を使う.水の加護.父親が自分のために研究してくれた魔法.白の民であることを隠し通す魔法.どこか空虚な魔法だなと,そんなことも思った.普段陽光から守るためと割り切って使うのにはいいのだけれど.白の民であることを隠すための魔法と思うと,寂しい気がした.
「本当に大丈夫?」
 もう一度,安否を気遣う声.赤い瞳は見られていないのかもしれない.それとも,やっぱり見ているのに言わないだけだろうか? ただ,それでも,この人は本当に自分の安否を気遣ってくれているのだと,なんとなくそんな気がした.疲れているのかもしれない.自分がこんなふうに他人を信用するなんて.そう思うと,逆にすれば自分は他人を信用できない人だという事実が浮かび上がって,どこか情けない思いがした.
「あ,なんか魔方陣かなり薄れちゃってるね.描き直さな……」
 でも.
「……どうして」
 不思議なことは残っていた.
「え?」
 尋ねたら聞き返された.
「……どうして,あなたがここに」
 そう.どうしてこの人がここにいるのか.図書館の入室を手伝ってくれた人.自分とこの人との関係は多分そこまでだったはずなのに.こうして,自分を助けてくれるなんて.理由なんてないのに.
「え,いや,学長が,君が沙漠へ出るって言ったから,追いかけてきたんだ.なんか,学長が言うには,沙漠は……」
 違う.
「……どうして」
 それでは意味がない.自分を助けてくれる動機を聞いているのに,それでは意味がない.
「ん?」
 また聞き返された.
「……どうして,私を追ってきたの」
「そりゃ,君を心配して……あ,もしかして迷惑だった……?」
 わからなかった.結局,よくわからなかった.この人は心配してくれているだけなのか.でも,そう.そういえば,図書館の入室を手伝ってくれるときにだって,理由なんて言わなかった.
 迷惑? そんなわけはないけど.ただ,自分が迷惑を掛けすぎているのではないかと思えて仕方がなかった.相手の意図がつかめない.そういう,どこか付き纏う小さな不安.
「と,とにかく.魔方陣,描き直すから……」
「……まって」
 これ以上世話になるわけにはいかないと思った.さっさと出て行かなくてはいけない.魔法陣を描き直してもらうなんて,そんなことまでしてもらっても,何も返せないのだから.
「何?」
「……ありがと.でも,もう,私,行くから……」
 助けてくれたのに,お礼くらいしか言えない自分が嫌だった.何も返せない自分が怖かった.早く逃げ出してしまいたい.どうにかして,何か返せるときまでの猶予が欲しかった.
「……行くって,でも」
 まだ声が掛かって,動き出せない.いや,声が掛かったからなのか良く分からない.単に体が動かないだけなのかもしれないと思った.
「環境維持の宝石,まだあるの? ……あ」
 そこまで喋って,慌てて何かいいわけをはじめた.
「ご,ごめん,見てただけで……でも,蜘蛛に対抗する手段なんか思いつかなくて.その,人間相手だったら,ほら,えと……」
 はじめのうちはなんのことか良く分からなかったが,どうやらこの人は自分が蜘蛛に襲われている時に既にこちらに気付いていて,それに加勢出来なかったことを言っているようだった.でも,そんなこと.
「いいの.仕方ないわ」
 こうして助けてくれただけでも十分すぎるのに.
「何度もありがと」
 一歩踏み出して,全然言うことを聞かない体に愕然として,やっぱりもう少し休んだ方がいいのかもしれないと思ってしまった.
「ちょ,ちょっと待ってよ! 魔方陣描ければ,石を温存できるよ.また何かあるかわかんないし.魔方陣分かる? 分からないなら,描き方くらいなら教えられるかも」
 分からない.この人はどうやら自分を引き止めたいらしい.確かに環境維持のための宝石は使い尽くしてしまった.魔法陣が描けるのならそれの代わりに出来るだろう.ここで習っていければどんなにかいいだろうか.だがやはりわからない.どうして引き止めたがるのかが.罠? でも,そんなことを疑うのは馬鹿馬鹿しかった.それに.
 何も返せない恐怖よりも,今はただひたすら,体が休息を求めているみたいだった.
 ゆっくり振り返って,尋ねた.
「それ,すぐ描けるようになる?」

 リーに基本的な魔法の心得が十分にあり,また既に魔法陣の教師となったアランの教師らしい上手な教え方も手伝って,リーはかなりの勢いで魔方陣というものを覚えていった.多少詰まったのは空中に陣を描かなければならなかったこと.ここが沙漠でなければそんな必要も無いのだが,沙漠である以上は砂の上に描くしかなく,それではすぐに風に流されて消えてしまうのだ.
 空中に陣を描けるようになれば,あとはその陣を移動するのも固定するのもリーは割と手際よくやった.出来のいい生徒を持つのは気分がいいものだ.
 あたり一面練習用の魔方陣がたくさん出来ていた.多分,数日もしないうちに全部消えてしまうだろうけれど.
「ありがと.本当に」
 リーはそう言って立ち上がった.
「もう,行くの?」
 改めてリーは陣を描き,これから歩かねばならない沙漠に備え始めた.
「うん.これ以上,お世話にはなれないから」
 二重以上の効果を持たせようとするとそれ自身の形がいびつになってしまうのは仕方がないにしろ,丁寧に描く魔方陣は,時間こそ掛かれど綺麗だった.よく短時間でこれだけ描けるようになったものである.
 生徒の出来の良さに感服すると同時に,初めて教師としての仕事をした気がして,どこかくすぐったいような気もしていた.
 だが,多少生徒の出来が良すぎたかもしれない.その生徒は,こんなにも早く卒業して行ってしまおうとしている.
「ねえ」
 声が届いたらしく,リーが肩越しに振り返った.綺麗な銀髪が肩を流れる.どうしたの,という表情.
「あ……」
 でも,何も言えなかった.なんて言っていいのかよく分からなかった.待ってくれ.自分も連れて行ってくれ.どこへ行くの.どれも正しいような気がして,でも,どれも言えなかった.
「それじゃ,行くから.本当にありがと」
 今描いた魔法陣を引き連れてリーは歩き出した.魔方陣はリーを守りながら滑らかに動いていく.もしその役目を自分が負うことが出来たなら.でも,自分にそんな力が無いことなんて分かっていた.
 しばらく動けなかった.もし付いて行って,迷惑だといわれたら.もし付いて行って嫌われてしまったら.それはとても嫌で怖いことだったけど,それでもアランはリーを追いかけることに決めた.何でもいい.何と言われてもいい.だって,誰よりも気になるから.嫌われるなら嫌われるで仕方ない.行こう.
 アランは踊るように杖を回し素早く魔法陣を描くと,その魔方陣と共にリーを追った.
「待って,リー!」
 聞こえているのか聞こえないのか,リーは止まらなかった.
「リー! 僕も一緒に行ったら,迷惑かな!?」
 リーの足が止まった.自分も一緒に足を止めた.返事が来るかどうかすら良くわからなかった.でも,それが来ると信じて待った.しばらくの間.そして.
 リーの呟きが風に乗って,本当に微かな声が聞こえた.
「……別に」
 アランは今度こそ思い切り走り出した.

 基本的に,沙漠の道中に会話はなかった.とかく付いてくることに関して文句があるわけではないが,ついてきたからといって何が,というわけでもないということらしい.要は無視されているということなのだろうが,砂嵐を防ぐのに自分だけでなくアランのことも気にかけたような少し大きめの防壁を築いたりするあたりは,完全に無視されているというわけでもないようだった.
 しばらくして,ひょっこりと突き出た大き目の岩が見えた.リーの進む方向からして目的地かもしれないと思った.だから一言あれが目的地なのかと尋ねたのだが,リーの返事ははいでもいいえでもなく,単に,わからない,だった.
 わからない,とは答えたものの着実にそちらへ向かっているあたりは,当面目指すはその岩であるらしい.多分そうだと思うけれど違うかもしれない,という程度なのか.もし正しく目的地だったのならそろそろたどり着くだろうと思っていたが,実はそう甘くなかった.なんと三日も掛かったのである.遠目には大き目の岩なのだと思っていたが,いざ目の前にたどり着いてみれば酷くでかいものだったのだ.
「……目的地はここでいいの?」
 でかい岩を見上げて尋ねた.
「もしかしたら」
 そう言ってリーは岩の周りを回り始めた.こんな巨大な岩を一回りする気ならそれでまたどれだけかかるか分かったもんじゃない,とは思うものの,何を探しているのかも分からないのではどうしようもない.
「……ねえ,何を探してるの? 僕が逆向きに回ろうか?」
 リーは立ち止まって少し考えたようだった.
「……お父さんを探してるの」
「お父さん?」
「そう.多分竜と同じところに居る.わかる?」
「竜って……」
 世界の代弁能力を与えられたといわれる種族のことか.
「そう,世界に対して近い位置に居る者」
「どうして,また竜なんか……」
「聞いてどうするの?」
 言われて詰まった.聞いてどうするのか.竜に対抗する手段など自分は持ち合わせていない.どころか,竜に対する知識なんて殆どない.
 でもリーは,大きな岩の方を向いて少し俯くと,その答えを呟いた.
「……父さんも,世界に対しては近い位置に居たみたいだから」
 それはどういう意味なのか.突っ込んで聞くのも躊躇われたが,リーの言葉は続いた.それはアランの疑問に答えたというよりも,むしろただの独白だった.
「……父さんも世界に対して近いところに居たみたいなの.でもね,分かったのはそれだけ.だから,こんな沙漠に来て,竜に会ったからって,会えるとも限らないのに」
 リーの杖を握る手に力が込められた.
「なのに,なのに.私は」
「……リー?」
「……ごめんなさい.迷惑かけて」
「いや,迷惑だなんてそんな,こっちこそ……」
「でも,自分でやるから.……自分で,やれるから」
 そう言ってリーはまた岩の周りを回り始めた.自分に言い聞かせるように呟いたリーに対して,どうしていいのか良く分からなくなったけれど,アランは少し離れてリーについていった.何も言われなかったし,ずっと沙漠の道中と似た感じだったから,それならそれでいいとアランは思った.
 そんなにしない間に,巨大な岩がぽっかりと黒い大きな口を開けているのを見つけた.

 しばらく岩の周囲を歩いて見つけた洞穴はかなり大きかった.しかし入り口も同時に大きかったし,日の光が丁度入ってきていたから,明かりは特に用意しなくともかなり明るい状態だった.
 もしかしたらここにお父さんが居るかもしれない.
 はやる気持ちを抑えて進んでいくと,何か大きく透き通った水晶のようなものが見えてきた.それが何なのか,遠目ではあまり良く分からなかったが,近づくにつれてその中には人影が見えることに気付いた.さらにしばらくすると,その人影は杖を持っていることが分かった.しかも,かなり派手な装飾の杖.そうだ.そんな無駄もほどほどにして欲しい杖は世界に一本しか存在しない.
「お父さん!」
 そう,あれは父親の持つ魔道士の杖だ.そこに居るのが父親だと確信してリーはそこに向かって駆け出した.やっぱりここに居たのだ.世界に近しいところ.もう少しだ.もう少し.あと,もう少し.
 なのに.
 どこからか分からない.だが自分の行方を阻むかのように現れた大きな蜥蜴は二枚の翼を背に携えていた.
「竜……」
 やはり阻まれるのか.竜に.世界の代理能力を与えられたというこの種族に.
「何用か」
 竜の声が聞こえた.聞いたこともない声.人の言葉と分かるのに,しかしどこか違和感のぬぐえない声.これが竜という種族なのか.その大きさもさることながら,その能力は計り知れなかったように思った.殆どの魔法が無効化され,そもそも物理的な衝撃は試すまでもなくこの種族には効力を成さない.そんな世界による保護に隙間があるとしたら,それは世界の気まぐれか,竜本人か,それこそ世界自身しかない.しかしまた逆に,それが故に竜それ自身が何かを成す事もない.
 とはいえ,これらの知識は文献によるものでしかない.どこまで正確なのかすら,わからないのだ.
「お父さんを返して!」
 無駄と知りつつ竜を見上げてそう叫んだ.
「確認をしよう.オーヴェルの魔道士の杖を継ぐ予定の存在.名はリヴィア」
 確かに.
「そうよ」
「ならば知り得ているはず.義務を全うしなかったオーヴェルは世界より千年の時を凍らされた.解放されるのは千年の時が過ぎる以外に有り得ない」
「そんなの知らないわ.返して.私のお父さんよ,それ以外の誰でもないわ!」
 無駄か.全ての言は無駄なのか.
「それは主にとってででしかない.世界はそう見ない」
 しかし,言が無駄なれば別の手段を考えるのみ.強制的に相手を排除する.
 一つだけ.一つだけだが,自分にも扱える.禁術に指定された魔法だ.
「どうして…….どうして返してくれないの?」
 その禁術.それが何故禁術に指定されたのか.
 理由は簡単だった.
「誰も返さないとは言っておらぬ.ただ千年の時を待て」
 それは,世界の代理能力を与えられれたという,
「何を言っているのか分かってるの!? 人の身に千年の時が何を意味するか分かっているの!? 返して! 返してよ!」
 竜への,
「我には何も出来ぬ.それに父親と言えど主のモノではないぞ」
 対抗手段となり得るからだった.
「返してよぉっ!!」
 ――竜に向かって雷が落ちた.

 なんと言ってよいのか良く分からなかったが,とにかくその巨大な岩に空いた洞穴は,これまた結構な大きさだった.明かりも用意せずずんずん進んでいくリーの後ろをアランはずっと追いかけていたが,ふと,先に大きく透き通った水晶のようなものを見つけた.
「人?」
 しかも,中には人が居るように見える.黒く長い髪をうなじあたりで纏め,白いローブを纏い左手にはかなり派手な装飾のなされた杖を持った女の人のようだ.何でまたこんなところに居るのか,しかもなんで水晶みたいなものに閉じ込められているのかさっぱり分からないが,あの装飾の多い杖はどこかで見たような,とにかく何か記憶に引っかかっていた.
「お父さん!」
 が,リーがそう言って走り出したのにアランはぶったまげた.
「ええっ!? お母さんの間違っ……!?」
 慌てて口を塞いだが,遅かったというよりはその必要も無かった.リーは全然聞こえてないようで,どんどん先に行ってしまう.
 しかしリーがその場所にたどりつく前に.まるでリーの行方を阻むかのように無機質な翼を持った大きな蜥蜴が現れた.世界の代弁能力を与えられたといわれる種族.竜だ.
 ――竜!?
 そういえばリーの話の中にそんな名前が出てきたような気もする.が,まさか本当に目の当たりにするとは思っていなかった.リーを信用していなかっただとかそういう問題ではなくて,単にあまりにも現実味がなかっただけだ.
「何用か」
 不思議な違和感を感じる声が聞こえた.どこが変なのかはあまり分からない.だが人間のそれとはまた異質の声だった.
「お父さんを返して!」
 目の前に立ちはだかった竜を見上げ,リーはそう告げた.全く無茶をする.それとも何か考えがあるのだろうか? でなければこんなところへ来たりはしないか.しかし彼女はどうにも父親のこととなると無茶をしすぎるような気がしないでもない.もちろんそんなに知っているわけでもないのだが,図書館の地下の時もそんなではなかったか.
「確認をしよう.オーヴェルの魔道士の杖を継ぐ予定の存在.名はリヴィア」
「そうよ」
 リヴィア? リーというのではなかったのか.いやそんなことより,魔道士とはまた,何で.
 と,そこでアランは気付いた.そういえば何か言っていた気がする.彼女の父親は世界に近いところにいた,と.そうか,魔道士のことか.詳しくはアランとて知らないが,世界に七名しか存在しないという,確か,強大な魔力を持った魔法使いのことだったか.
「ならば知り得ているはず.義務を全うしなかったオーヴェルは世界より千年の時を凍らされた.解放されるのは千年の時が過ぎる以外に有り得ない」
「そんなの知らないわ.返して.私のお父さんよ,それ以外の誰でもないわ!」
 もう一つ気付いた.杖だ.水晶のようなものの中に閉じ込められていた人が持っている杖.あの派手な装飾,どこかで見たと思えば,もしかして魔道士の杖か.本で図を見ただけで記憶はおぼろげだし,むしろ全然違う気もするのだが,それでもどこか雰囲気がそう思わせる.
「それは主にとってででしかない.世界はそう見ない」
「どうして…….どうして返してくれないの?」
 リーの声が震え始めた.それが何によるものなのかはよく分からない.恐怖ならば初めからそうであってよかったはずなのに.
「誰も返さないとは言っておらぬ.ただ千年の時を待て」
「何を言っているのか分かってるの!? 人の身に千年の時が何を意味するか分かっているの!? 返して! 返してよ!」
 いや.声が震えていることの理由は怒り,か.父親を返してもらえぬことに対しての.もうただ悲鳴としかいいようのない叫び声が洞穴の中に響き渡った.しかし,彼女の父親が囚われている理由については良く分からないが,いずれにせよ相手が世界や竜なのではリーの方が分が悪いような気がするのだ.ひとまず無茶なことはしないでほしいが.
「我には何も出来ぬ.それに父親と言えど主のモノではないぞ」
 と思った矢先,結局リーは思いもよらぬ無茶をしたようだ.
「返してよぉっ!!」
 ――瞬間,視界が白に染まりきった.
 何の呪文も,予備動作すらもなしに彼女は魔法を発動させたらしいのだと,しばらくして気付いた.ぜんぜんそんなそぶりを見せなかったから,まさかこんな無茶をするとは思いもしなかったのだ.この魔法はもしや,禁術ではないか.竜への対抗手段となり得るが故禁術とされた魔法.名はただの自然現象と同じ名が付けられている.
 雷,と.
 だが使う者が使えば馬鹿にならない威力を発揮する.真偽の程は定かではないがしかし遥か昔には国一つを吹き飛ばしたという逸話が残るくらいだ.並大抵ではないはずである.術者の身だって危ないし,良く考えたら自分だって危ない.
 慌てふためいてる暇すらなかった.とにかく無茶苦茶な爆風でアランはそのまま洞穴の外へ向かって思い切り吹き飛ばされた.もし吹き飛ばされた先が洞穴の入り口でなく壁だったら,命があるかとかそういう話ですらなくなっていたところだ.体まるごと吹き飛んでいたっておかしいものか.
 アランは随分と長い時間飛ばされているような気がしてならなかった.いや,むしろ意識があっただけ奇跡みたいなものだ.このままではいずれ砂の上に叩きつけられる.だがもう,今更制御できるような状態でもなく,アランはただ,叩きつけられた時に変な風に引っかかってしまうのを避けるために杖だけなんとか手放した.あとはもう出来ることもなくて,ぶつかるのが突き出た岩でないことを祈るだけだった.いやむしろ砂の上だってごめんだ.こんな状態ではどうなることか.しかし永遠にぶつからないわけにもいかないわけで,もうなるようにしかならない.
 アランは結局かなり浅い角度で砂の上に叩きつけられ,そのまま跳ね上がりもう一回叩きつけられた.何度かそんなことを繰り返すうちに勢いが殺がれてごろごろと派手に転がるようになり,ようやく酷い姿勢のまま止まったのだが,そもそも初回に叩きつけられた時に本人の意識なんぞ雲の上まで跳んでいたので本人はそんなこと知る由もなかった.

「痛い……」
 ちょっと色々ありえない方向に曲がっていそうな勢いな体勢でアランは呟いた.もっとも,あの状況で生きてただけマシ,というのは往々にしてあるわけで,結局のところ,幸運というか受身が上手いというか,いやもうむしろただの奇跡だと言ったほうが余程信じられそうだった.叩きつけられた時点で死んでいたかもしれない上,気を失ったまま夜になって凍死とかいう可能性だって往々にしてあったのだから.
「うっわー.生きてるよ僕」
 気が付いた体勢がこんなでは受身も何もあったものじゃなかったのかもしれない.というか,一度目以外は完全に気を失っていたわけで,その時点で受身も何もなかったのか.体の節々が痛むというかどうなっているのかあんまり確認したくない気分でありながらも,アランは少しずつ体勢を戻していった.
 それにしてもリーは無茶をしすぎだと思った.まさか術者本人が自分みたいに吹き飛ばされているとは思いたくないが,しかし得てして威力の大きな魔法というのは術者にも危険が降りかかることが多かったはずだ.なぜなら往々にしてそういった魔法は制御しづらいからだ.もっとも大きな魔法でなくとも制御に失敗すれば被害は降りかかるが,そう滅多に失敗はしないし,そもそも効果が小さければ失敗もそれほどの被害ではないからあまり問題になることはない.
 が.いずれにせよ彼女が使った魔法は禁術指定だ.しかも理由はその過ぎた効果が理由だったはず.そう簡単に制御を失敗する人ではなさそうだったし,そんなんだったらそもそも使用しないだろうが……
 ……いや,どうも父親のこととなるとムキになりすぎる気配はあるか.
 とりあえずあまりにも妙な体勢からはなんとか戻って,今は痛くて起き上がれないところだ.さてどうしようかと思えば杖も放り投げてしまったし,やれることなんて無い.いや魔方陣は指でも描けないわけではないのだが,さすがに傷の治療が出来るような魔方陣なんて知らない.杖があれば多少治癒魔法が使えないわけではないのだが.
 と,そこで荷物を思い出した.杖は確かに放り投げてしまったが,荷物を解いている余裕は無かったので運がよければ残っているはずである.もしあれば,一時的に杖の代わりになるようなものが.確か.入って.
「……無いような気もする」
 喋ると痛い.ので喋るのは止めた.手探りで腰の辺りを探ってみるとどうやら荷物はあったらしい.なんとか手を突っ込んでごそごそ袋の中を掻き回してみると,白金貨が何枚かと,金貨が何枚かと,銀貨が何枚かと,水筒と,保存食と,とまあ,そんなものが出てきた.
 あればあるだけマシ.やっぱり使えるものはなさそうだが一応銀製のものがあったではないか.お金は粗末にしてはいけないとは思うがこの場合は自分の命が先決だとアランは思った.ここで銀貨を媒体にして魔法を使ったって誰も文句言わないだろう.確かに媒体にされた銀貨は通貨としては役に立たなくなってしまうかもしれないが,それでもこんな時にこんな風につかうなら決して粗末にしたなんて誰も思わないに違いない.
 と,一応適当な言い訳をしてから銀貨を持ち出し,それを媒体にして治癒魔法を使用する.我ながら効き目抜群だなと自画自賛というよりはむしろ半ば呆れつつも,ひとまずのところ痛みは引いてくれたのでよしとする.効き目抜群というか怪我そのものは放置だ.単に痛みを潰していっただけ.
 とりあえず起き上がった.痛みは無くなったが右手が動かない.僅かでも力を入れてしまうと泣きそうに痛かった右手はどうやらというかやっぱり骨折.もしかしたら二箇所以上かもしれないなと思いつつ生きていた左手に感謝する.あと両足その他.
 で.やっぱり杖がないと色々不便なので,右手をぶらぶらとぶら下げたままアランは杖探しに出かけることにした.またしても硬貨には申し訳ないが役に立ってもらうことにする.金貨を一枚取り出すとアランはそれを高く弾いて,その金貨が向かった方向へ歩き出した.もう自分がどれだけ飛ばされたやら分からないが,出来るだけ早く杖が見つかってくれると嬉しい.早く杖を見つけて簡単でもいいから怪我の治療をしておかないと後で大変なことになりそうだからだ.やはり銀貨では上手くいかないみたいだった.歩いていると体のあちこちが痛んだ.

 杖はなんとか見つかった.応急処置的に傷の治療はしておいたが気休め程度.それにしてもあの学長は杖に何か細工をしてくれていたのかもしれなかった.そうでなければこんなに早くは見つからない.探索魔法の正確さがあまりにも違いすぎる.金貨ごときの気休め探索でこんなに手早く見つかるのなら世の中失せ物に困ることも少なそうな気がする.あの学長のことだから研究中の魔法の実験台にでもしたのだろう.帰ったら問い詰めてやる.
 しかしとりあえずの問題はそんなことではなかった.たとえ実験台だったとしても杖が早く見つかったことに関して文句は無いのだ.それよりもリーである.吹き飛ばされた時に変な風に頭でも打ったか,なんか吹っ切れてしまった.今までうじうじ考えていたのが馬鹿みたいに思えてきた.どんなに気恥ずかしさが感じられようが全部ひとことで説明できるんじゃないかと思ったのだ.リーと一緒にいたいというその気持ちの説明のことだ.そうだ.簡単だ.簡単だよ.何かって? そりゃ,恋って言うんじゃねえのか.人を好きになることに理由なんかあってどうする.もう何にも関係ない.好きなんだ.あの銀髪の女の子が.好きなんだ.リーが.もう何も要らない気がした.君を追う理由? 君を心配する理由? そんなの決まってる.君が好きだから.こんなに万能な言葉があるとは思ってもいなかった.
 その後のことは,知らない.
 アランはリーを探して歩き続けた.幸い目的地は目立つので迷うことは無い.いくら禁術魔法で吹き飛ばされたとはいえ,さすがに陽が回ってしまわないと辿りつけないほど遠くへ飛ばされたわけではないのだ.目的地は今でも目の前に巨大な岩影として見えている.あのあとどうなったのかはよく分からない.竜を倒してしまって,無事父親との再会を果たしているのかもしれなかったし,あんまり考えたくなかったが,術の制御に失敗してリーは既にこの世から居なくなってしまっているかもしれない.
 もし,既に死んでいたら?
 相手が禁術では可能性が低くない.考えたくなかったがどうしてもそういう考えに囚われてしまう.もし,死んでしまっていたら,どうするのか.ようやく気付いた言葉を伝えずして,全ては終わるのだろうか.だったら.そんなだったら,自分も吹き飛ばされた時に死んでいればよかった.ぶらぶらと制御のない腕を残して生きていて欲しくなんかなかった.なんで,こんな奇跡みたいなこと.そして奇跡っていうのは,どうして,こんな,残酷な――
 アランは勢い良く首を振った.さすがに応急処置的な魔法ではどうしようもないようで,そんなことをしたら酷く痛かったけれど,今はその痛みが,悪い考えを攻撃してくれるみたいで良いとも思えた.馬鹿なことを考えてはいけない.リーは生きているに決まっているさ.こんなことであっさりと死んでしまうような女の子なのだったら.僕はそんな娘を好きになったりなんかしない.しないよ.しないんだから!
 アランは自分に言い聞かせるようにしてリーの生存を祈った.自然と歩調も早くなって,なんだか怪我の痛みもどうでもよくなった気がした.早くリーの無事を確認したい.無事に父親との感動の再会を果たしているのを確認したい.もしそんな場面だったら,安心して洞穴の外で待っていよう.感動の再会を邪魔しちゃいけないから.だったらどうやってそれを確認しようか.邪魔しないように確認するにはどうしようか.リーのことだから普通に近づいたら気付かれてしまいそう.何か,そう,そんなことができる魔方陣は無かったかな.
 アランの歩調はどんどん早くなって,ついには駆け出してしまった.足も走れるような状態ではなかったと思ったけれど,そんなのはどうでもいい.腕もぶらぶらしたままで勢いに流されてるけど,多分大丈夫だろう.今はリーの生存の確認が最優先.腕の一本や二本はくれてやる.だから,どうか.どうか,世界よ,リーを,助けて――
「!!」
 次の瞬間.アランが見たのは,砂の上に放り出されて倒れているリーの姿だった.

「リー!? そんなっ,リー!!」
 アランはなりふり構わず叫びながらリーに向かって走っていった.嫌な予感が走る.むしろ嫌な予感しか走らない.あそこに倒れているのはただの亡骸なのではないかと,その思いがどうしても拭えない.
 世界に願いを! 僕からリーを,どうか,奪わないで.
 アランの祈りは通じたのかそうでないのか.ただ世界はそこにあるはずで,でも,アランにはどうしようもないものだった.アランがリーのところに辿りついて,もう既に片方しか残っていなかった腕でリーを抱え上げ,それで,まだ,彼女が冷たくなっていないことに少しだけ安堵した.もっとも,この灼熱の沙漠の中では,亡骸もまた温かいかもしれないのだけれど.
「生きてる……」
 白い首筋に手をあて脈を確認した.呼吸もしてるようだ.外見的に怪我はないように見えるが,でも意識はない.白い肌を焼かないようにと思ってとりあえず魔法陣を描き,そして,今度は足も使ってなんとかリーを抱えると,リーを呼び始めた.
 とりあえず倒れている原因は良く分からない.もし禁術の制御に失敗していたらこんな状態では済まなかったはずだ.だとすれば術自体は成功しているはずで,そもそもぼろぼろに崩れた洞穴がそれを物語っている.
 だとしたら,竜は,討ち取ったのだろうか? 彼女の父親は?
「だれ……?」
 何度目か呼んだ時,リーが薄く目を開けた.
「良かった.リー,僕だ.アランだよ」
「あら……ん?」
 少し不思議そうな顔をして名前を呟いた.もしかして自分のことが分からないのかとアランは慌てたが,しばらくしてリーは,ああそうねと呟いてまた目を閉じた.
「リー?」
「うん……ごめんなさい.お父さんだと……思っちゃった.そんなわけ,ない,のに」
「あ……」
 そういえば,そうか.でも,彼女の父親はあの場所から解放されたのだろうか?
「ご,ごめん.でも」
「いいの.ありがとう.でも,どうして」
 リーの言葉が一度止まって,やっぱり何を聞かれているのかアランは良く分からなかった.でもしばらくしてリーは首を回してアランからを顔を背けると,続きを喋り始めた.
「どうして,こんな,私なんか.を.どうしてこんなに,優,し……」
 尋ねる声は小さい.でもアランはそれをしっかりと聞き取っていた.前にも似たことを聞かれた.繰り返される質問.前はなんて答えてよいのか自分でも良く分かっていなかった気がする.でも今度はその理由が自分でちゃんと分かっていて,それを答えてやれば良かった.でも,それって何を意味するのだろう? 自分と彼女の間をどうする言葉なのだろうか.
「ねえ,どうして」
 繰り返される質問.答えないという選択肢が選べないのなら.もう何も考えることは出来なかった.だってその理由は唯一でかつ万能で,もし答えるのならそれ以外にないのだから.
「それは……」
「……それ,は?」
 繰り返される質問.そして初めて,それに対する正当な答えがアランの口から紡がれた.
「うん.言うよ…….君のことが好きだからだ」
 リーの体が少し震えたのが分かった.正当な答えだったかもしれないけれど,それを告げてよかったのかどうかはよく分からない.
「……そんな,それって」
「もう一度言おうか,君のことが好きだからだ.愛してる,一緒に帰ろう.こんなところに居ないで,僕と一緒に暮らそう」
 でも告げてしまったものを取り消すことはできず,そしてそれが唯一で万能であるが故に,もう一度確認されたところで同じ答えしか返せない.
 腕の中でリーが泣き始めた.
「……やっぱ,ダメ,かな」
「ずるい……」
 リーの声がアランの耳に届いた.
「ずるい.あなた,ずるいわ.そんな,だって.だって,こんな風にして言われたら,だれだって,私もそうなのかなって,思っちゃうじゃない……」
 よく,分からなかった.リーは泣いていたけれど,少なくとも拒絶の色は見られないと思った.思いたかっただけなのかもしれない.
「お願い.お願い,私をここから攫っていって.父さんから私を奪っていって.これからはあなたが私の傍に居て.お願い.また父さんを呼んで泣き出しても,きっと傍に居ると約束して……」
 ぼろぼろと泣き崩れるリーに対して,アランは契った.

 結局のところ,魔法そのものは一応の成功を見た.特に制御を失敗したような部分も無かったし,天から舞い降りた雷は洞穴の天井を打ち抜いて竜に直撃した.それは間違いない.ただ,魔法が成功することと,目的を達成することとは全くの別問題だった.
「愚か者め!」
 雷の魔法の直撃を受けたにもかかわらず,竜は生きていた.
「なんと呪われた一族であることか……」
 この雷という魔法が禁術に指定された理由は,確かに竜を殺害する能力があるからである.リーは,魔法の制御能力も,魔力も,それをするに十分だった.では,予備動作を省略したのが悪いのか? 呪文が無かったから? 実際にはどちらも違う.そもそもこの魔法は予備動作も呪文も必要としないのだ.付けてはいけないわけではないが,竜と対峙したとき,そんなことをしている余裕はどこをどうつついても,無いのである.
「教えておいてくれよう」
 竜は,多分,怒っていた.多分,というのは,残念ながらリーには竜の表情を読み取ることも,声の調子から推測することもできなかったからだが,しかしながら,状況からして,多分,竜は怒っていた.
「その魔法に足りぬものは」
 竜が近づき,太く長い尾を振るった.リーはそれに弾き飛ばされ,洞穴の外に放り出された.
「魔道士の杖だ」
 そしてリーはそのまま砂の上に叩きつけられ,ごろごろと転がった.尾に弾かれた時既にリーは意識失っていたから,結局のところ彼女は何が足りなかったのか知ることは出来なかったことになる.
「愚かなるのは単にその運命が既に呪われているからか」
 誰にも聞こえていない,竜の独白.
「だとすれば,哀れと言ってやるより他仕方ない」
 もし聞いているとすれば,それは世界とか.でなければ,洞穴を這い回る虫とか,岩とか砂とか,そういったものだろうか.
「人は我に世界の代理能力があると言うが,ある意味間違いだ.世界が我を通して力を振るうことはあれど,我が世界の力を振るうことはない.ただの,竜という,生物の一種でしかないぞ」
 ただ,それらが竜の声を聞き,言葉を理解するのか,それは分からないが.
「魔道士オーヴェル」
 竜は,時を止められたままただそこにあるだけの存在と化した,オーヴェルという名の魔道士の方を向いて言った.
「主の娘が再びここを訪れることのないように,ただひたすらに祈るが良い.世界は――選択をしたぞ」
 もっとも,その声は,オーヴェル本人には届いてはいないだろうが.
「もしも彼女が再び訪れたなら,彼女は主を殺し,主は彼女に殺されることになろう.世界の選択に対して,我は成す術を持たぬ……」
 竜は一度,洞穴の外へ,いや,リーの方へ視線を向けた.
「いや,それとも」
 リーは完全に意識を失っているようだった.もう一度竜はオーヴェルの方を向き,まるでオーヴェルがそれを聞いているかのように尋ねた.
「主らは,それを望むか?」
 竜の独白が終わると,沙漠という環境に切り取られた竜の住む洞穴は,自然な静寂に包まれた.

 誰かが自分を呼ぶ声が聞こえる.リー,と呼んでくれる誰か.ずっと一緒に居てくれた誰か.
 声に呼ばれてリーは目を覚ました.そうか.竜の尻尾に打たれて気を失っていたのか.焦点の合わない目は,でも確かに目の前に人の顔があることを知らせてくれている.自分を抱きかかえてくれているらしい人.それは……
「だれ……?」
「良かった.リー,僕だ.アランだよ」
「あら……ん?」
 答えはすぐに返ってきたけれど,それが一瞬誰なのか,よく分からなかった.違う気がする.自分が待っていた人とは.求めていた人とは違う気がする.
 そして.
 ああ,そうか.結局自分は,父さんを解放することは出来なかったんだと思った.こんな沙漠の中,もし居るのだとしたら自分か,竜か,でなければ.
 リー,と呼んでくれる誰か.ずっと一緒に居てくれた誰か.
 確かにそうだ.間違いない.沙漠に入ってからだけど.ここに来るまでずっと一緒に居てくれた.
「リー?」
「うん……ごめんなさい.お父さんだと……思っちゃった.そんなわけ,ない,のに」
「あ……」
 それは,アランという人.
「ご,ごめん.でも」
「いいの.ありがとう.でも,どうして」
 どうして,この人は私と一緒に居てくれるのだろう.どうして,こんな沙漠の中を,一緒に居てくれたのだろう.
「どうして,こんな,私なんか.を.どうしてこんなに,優,し……」
 く,してくれるのだろう……
 そして,自分は彼のことをどう思っているのだろう.待っていた人は父さんのはずなのに.この人は違う人なのに.それでも,心地よいと思えるのはどうしてだろう.この人と一緒に居て安心できるのは,この人と一緒に居て嬉しいのは,どうしてなのだろう.
「ねえ,どうして」
 無駄な質問.自分のことを聞いても仕方ないのに.
「それは……」
 それとも.彼は,その答えを返してくれるのだろうか?
「……それ,は?」
「うん.言うよ…….君のことが好きだからだ」
 ……!?
 答え? それが,答え? 私の? ――いいえ,あなたの!
「……そんな,それって」
 でも,じゃあ,それなら私は.
「もう一度言おうか,君のことが好きだからだ.愛してる,一緒に帰ろう.こんなところに居ないで,僕と一緒に暮らそう」
 わかんない.わかんないよ…….私もこの人と一緒に居たいの? もしかして,自分もこの人を必要としてるの?
「……やっぱ,ダメ,かな」
「ずるい……」
 ……そう,なのかもしれない.
「ずるい.あなた,ずるいわ.そんな,だって.だって,こんな風にして言われたら,だれだって,私もそうなのかなって,思っちゃうじゃない……」
 やっぱり,そうなのかもしれない.自分も,アランという人を,必要としている.そうなのかもしれない.考えれば考えるほど,自分はこの人を必要として,いや,正しく言えば,好きなのだと.そう,思えてきた.
 だったら.
「お願い.お願い,私をここから攫っていって.父さんから私を奪っていって.これからはあなたが私の傍に居て.お願い.また父さんを呼んで泣き出しても,きっと傍に居ると約束して……」

 なんとなく目が覚めて,見慣れない天井を見て,彼はようやく自分が姪の家に泊まっているのだということに気付いた.すぐ傍にある扉を見て,もぞもぞとそちらの方へ行く.
「おはよ,スタンリー」
「あ,ああ……おはよう……」
 扉を開けると,こちらが扉を開けることを知っていたかのように,ものの見事にリーとアランの二人がこちらを見ていた.どう反応してよいものか分からず,ただ彼は間抜けな返事をするだけだった.
「なんでもお見通しなのか? なかなか怖いぞ」
 少しはしゃんとしてから,そんなことを呟きつつ部屋の中へ入っていく.
「ある程度のことなら分かるわ.あなたが起きたかどうかくらいなら」
 そう言いながらも,リーはアランに何か目配せをした.なんとなく嫌な予感がする.なんとも魔法使いとは苦手だ,一体全体何を考えて何をするのか皆目検討が付かない.
「アラン.お願い.スタンリー,ごめんなさいね」
 何のことか少しも分からなかった.一体何が起こったのかわからないまま,気づいた時にはアランが今までスタンリーが寝ていた部屋へ滑り込んでいて,しかも自分が仕事で扱っていた荷物を持っている.
「!? 何のつもりだ?」
「スタンリー.答えてちょうだい.あの荷物の中身は何?」
 彼はただでしかめっ面だった上に,さらに眉をひそめることになった.
「一体何だって言うんだ.冗談はよしてくれリー.俺はたまたま運び屋兼護衛をやっているだけだ.あの荷物は俺の私物ではないんだぞ」
 だがリーは容赦なかった.
「違う.聞いているのは中身よ,スタンリー」
「中身だと? 俺は知らん.もう一度言うがこれは仕事だ.依頼主から開封を禁じられたら中身を見るわけにはいかないだろう」
 言っていることに嘘はない.命じられたのは荷物の保護と運搬,それと,場合によっては護衛の任に付けということだけだった.中身までは聞かされていないし,開封も禁じられていた.それに,開けて見ようにもなにか仕掛けがしてあるらしく,簡単には開かないのだ.
「そうね.でも別に私たちは何も言われてないし,いいわよね.アラン,確認を」
 リーがそういうと,アランはまるでそんな仕掛けなど無いようにいとも簡単に荷物を開けて,中を確認した.そして リーに向かって頷く.
「間違いないよ,リー」
「そう」
 リーは残念そうに呟いた.
「随分,黒い仕事を引き受けたのね.スタンリー? でも,中身を知らないのではあなたを責めるわけにいかないのかしら」
「何の話だ」
 気分が悪い.
「まるで俺が悪人だという言い草だな.俺は何も知らん.いい加減にして荷物を返してくれ」
 まさかリーにこんなことをされるとは思ってもいなかった.荷物の保護は仕事内容だ.もし何かあったら完遂できない.
「あなたが悪人かどうかは知らないわ.でも,あなたにそれを依頼したのはあまり良くない人のようね」
 リーの視線はあくまでも冷たく注がれていた.だが自分は身を持って知っている.魔法使い二人に囲まれたら,自分は何もできないってことくらいは.
 スタンリーは諦めた.この際多分それが最善だ.
「……分かった,降参だ.もう勘弁してくれ.俺は仕事で受け取っただけだ.言われたのは荷物の保護と運搬,それと多少の護衛だ.依頼主はヴェルヴェヌ商会.これ以上は知らん.知らんことは言えん.これでいいか?」
「ヴェルヴェヌ商会? 何をするつもりなのかしら一体」
 ヴェルヴェヌ商会といったら,このあたりでは割と有名な商業団体だ.小売店は半数くらいが名目上そこの傘下ということになっていたはずだ.それに,幅広い品種と高品質,そして良心的な値段で市民の信頼を得て,ずっと堅実にやってきていたはずだ.それにそういった信頼があったからこそ,スタンリーは依頼を受けたのである.
 後ろからアランの声も聞こえてきた.
「ヴェルヴェヌだって? せっかくの信頼を失墜させるつもりなのかな.あそこは.どうやらこいつに相当目が眩んだらしいね.分からないでもないけど.でも実際にはそんなに価値はないはずなんだけどな」
「困ったことね.今まで堅実に築いてきた信頼を壊してしまったら,困るのは商会や小売店だけじゃないわよ.物品の移動が潰れるじゃない.一般市民にまで被害を出すつもり?」
 不機嫌な声が聞こえてくる.もう何がなんだか分からなかった.
「俺に言われてもわかるか! なあ,教えてもらえないのか.一体何なんだあの袋の中身は.そんなに騒ぐものなのか? 麻薬でも入ってたのか?」
「薬程度だったら私たちがこんなに騒いだりしないわ」
 本当に困っている調子でリーが言う.
「なら一体何なんだ!」
 麻薬程度? ではそれよりも酷いのか.一体自分は何を運ぼうとしていた?
 リーは深く息を吐いてから,それに答えた.
「竜の卵よ」

「竜の卵よ」
 言ってから,自分でも何を言っているのだろうと思った.おかしい.おかしいのだ.竜の卵なんて,なんでこんなところにある? 竜の巣から手に入れてきた? 誰が? どうやって!
「竜の卵だと?」
 怪訝な表情のスタンリー.無理もない.多分麻薬の方が余程騒ぐべきもののように思えているのだろう.
「だが,竜の卵といったところで,そんなに凄いものなのか?」
 本当はそんなに凄いものではない,と思う.少なくともそう簡単には扱えない.
「いえ,そうね.別に竜の卵だからってそのもの自身に何か力があるわけじゃないわ」
 卵は,ただの卵でしかない.
「でも.考えてちょうだい.竜という世界に近い種を,もし,手懐けることが出来たとしたら?」
「出来るのか?」
「さあ.でも,過去に手懐けていた人が……居るわ.文献での記録でしかないから本当かどうかはわからないけど」
「なるほど.だが,それで結局こいつはどうするんだ?」
 スタンリーは親指で彼の荷物を示して言う.
 そうだ.さあ,どうするのか.そんなことは考えていない.誰がどうやって持ってきたのか全く分からない竜の卵.
「そうね.このまま黙認してしまっても,別に私たちに関わりはないわよね.ヴェルヴェヌの信頼が失墜したら生活に関係しそうかもしれないけれど,でもその程度」
「そうかもな」
「でも.でもよ,スタンリー.ひとつだけ考えなきゃいけないことがあると思うの」
「……何だ?」
 そう.一つだけ考えなければいけないことがある.その卵が竜のものだからとかそんなことは全然関係なくて.誰がどうやって持ってきたのかとかも全然関係なくて.ヴェルヴェヌの信頼がどうこうとかもやっぱり関係なくて,ただひとつだけ.
 リーは,アヴェンの方に向いて言った.
「……もしも,もしそこで寝てるアヴェンがある日突然いなくなっていたら?」
「……」
 リーは,またスタンリーの方に向き直って言った.
「……ねえ,スタンリー.ちょっと違うかもしれないけど,よ.あなたの……妹さんが,突然居なくなったとき,どう思った?」
 スタンリーは黙ったままだったけれど,表情を硬くしたことははっきり分かった.
「ねえ.やっぱりそういうことじゃないのかしら? ……いいえ.そういうことなのよ,スタンリー」
「……そうだな.だが俺は竜の居る場所なんて知らないぞ」
「分かってるわよ」
 リーは立ち上がった.
「さあ,アラン.行きましょう」
「了解」
 アランは,すっ,と自分の荷物を掴んだ.もう用意は出来ていたらしい.
「……どこへだ?」
 スタンリーはまた少し事態を把握していないような顔で言った.
「沙漠へ」
 短く答えると,リーもすぐに自分の荷物を掴んで,そしてアヴェンを抱き上げる.
「……まさか,その子も連れて行くのか?」
 リーはスタンリーの方に向いたが,それの答えになっていないことを言った.
「その卵を返すために.そして」
 そこで言葉を切ると,リーは連れて行くのが当然といった態度で入口まで行き,扉を開く.そしてそこでまたくるりと半回転すると,家の中へ向かってはっきりと告げた.
「――父さんに,会うために」

「来たか.来たのか愚か者.来てしまったのか呪われた一族,ああなんたること.我は主らを哀れもう.傲慢というなかれ.同じ世界に生きる生物としてどうして哀れまないでいられようか.世界の容赦なき仕打ちに対して,我が出来ることはなかったか.今更無駄なのか」
 リーたちがいずれ自分のもとへ来ることは,竜にはすぐに分かった.何故なら彼らは精密で強力な魔法陣に身を包み沙漠の容赦ない環境をものともせず,こちらへまっすぐと歩いてきているからだ.感じられる制御された魔の流れは,たった一年の時しか経っていないとは思えないものだった.人の子は,そう,急に強くなる.信じられないほどに.
「のう,オーヴェル.人の子でありながら魔道士たる運命を背負わされた不幸なる人よ.もし主が世界の仕打ちを受けずに今まだ我の声を聞きそれに答えることが出来たのなら.我は尋ねてみたかったぞ,一度.我らが世界に対して出来ることは本当に何もなかったのかと……」
 だが,信じられないほどに脆く散っていく.運良く生きながらえて八十か.魔法を駆使したところで百の年を数えられるものだろうか.
「千の年という感覚が我にはよく分からぬ.だが人のそれに比べるのならば永久に等しい時間であるのかもしれぬ」
 強くなったのは,リーというよりむしろアランであったかもしれない.少しも専門馬鹿は直ってはいないが,それでも魔方陣の使い方にかけては右に出るものなど居ないだろう.そしてそのアランの教えを受けあっさりと魔方陣を操るようになったリーを加えると,沙漠の環境とて彼らを止めることは出来なかった.
「久しいな.魔道士オーヴェルの娘リヴィア」
 そして.リーとアランとアヴェンとスタンリーは,あっさりと竜のもとへ辿り着いてしまった.
「お久しぶりね」
 リーは赤子アヴェンを抱えたまま,竜の目前に立ってはっきりと答えた.アランはその隣で竜の卵を持ち,スタンリーは竜の姿にぶったまげていた.
「しかし残念だが,我は早急に引き返すことを推奨する.いや,むしろ願う.我が世界に抗うことに意味があるのかそれは分からぬ.だが,同じ世界に生きる生物として,どうかそうして欲しい」
「そうもいかないのよ.今回は取り引きだから」
「……なんだと?」
「取り引きといったのよ.そう,お互いの家族を返し合うのよ.私の父さんと.そして,そこにある竜の卵」
「卵だと.卵! なんたることだ.愚か者め.なんたることだ.容赦なき世界の仕打ちよ……」
 リーは下唇を噛んだ硬い表情でそこにいた.ただ,その表情はまるで彼女自身を責めているように見えて仕方がなかった.もしかしたら彼女もこんな取り引きはしたくなかったのかもしれない.卵を返すだけ返して引き返したかったのかもしれない.ただ,それでも,多分.返すものが卵であるがゆえに.抱えているのが息子であるがゆえに.家族を取り戻したいというその想いが,溢れて止まらないのだろう.
「……リヴィア.その卵を我のところに持ってきたのは正解だった」
 竜はゆっくりと言葉をつむいだ.人とは異質な声で.それでも,意思を伝えることの出来る言葉を.
「その卵は海の竜のものだ.もし素直にかの竜のもとへそれを持ち込んだら,主らは既に殺されておっただろうな」
 竜はしばらく黙っていた.アランも喋らなかったし,アヴェンは寝ていた.スタンリーは何か言いたかったのかもしれないが,言える状況ではなかった.
 そして次の言葉も竜が発したものだった.
「わかった.我としてもその卵は返してもらうより他仕方あるまい.その卵は我が責任をもって海の竜のもとへ返そう.そしてリヴィア,ひとつ答えるがよい.主の父親魔道士オーヴェルは,世界の決定により千年の時を凍らされた.千年の時が過ぎる以外に解放される余地は何一つとしてない.さあ,開放する手段を述べるがよい」
 もしこの謎かけにリーが答えられなければ.ここの人間を叩き潰してでも卵を手に入れてみせようか? それとも,取り引きに乗らずにそのまま返そうか.でなければ,答えを提示してしまえばいいのか.ただいずれにせよ,どれが選ばれても命が失われることに変わりはなかった.卵が返らなければいずれ世界が動き,命どころか存在自身が危ういだろう.無理に卵を手に入れようとすれば死人の発生は避けられない.答えが提示されたなら,オーヴェルが命を落とすことになる.
 どれがマシなのか少しも分からなかった.それでも.それが僅かな時間だったとしても,親子が再会を果たせるのならば,それがいいのだろうか――
 そんな中,リーが答えを述べた.
「時を千の年進めること」
「……正解だ」
 運命は親子の再会を選んだ.
 ――そしてその別離も同時に.

「だがリヴィア.ただしその前にひとつだけ言っておこう.我とて世界に逆らう力があるわけではない.時を捻じ曲げオーヴェルを開放するには条件がある」
 異質なる声が響く.
「条件?」
 涼やかな声が返り響き,竜は首をめぐらした.
「条件はふたつ.ひとつは,会えるのはリヴィア,お主一人だけということ」
 リーは少しだけ考えて,告げる.
「……分かったわ.もうひとつは?」
「もうひとつは……」
 竜は言いよどんだ.時の流れというものを捻じ曲げて開放するというそのことの条件.ものの要は,歪みが生じないようにする為の条件.
「もうひとつは?」
「……もうひとつは」
 竜はやはり沈黙を守る.リーはそれ以上尋ねずに,竜が喋るまで待った.
「我とてやって欲しくないが,リヴィア.避けられないことだ」
 いずれにしろ喋らなければこの場は動かない.
「もうひとつは,陽が一度巡る前にオーヴェルを消すこと」
「……消すこと?」
 リーの表情が暗く落ちる.
「要は殺せと言っている.陽が巡ってしまうほど長い間,時系的に異質な存在を置いておくことはまずできない.消すことが唯一世界を黙らせる方法だ.そしてオーヴェルに会うのは一人だけである以上は,即ち,オーヴェルを殺せるのは会う者しかいないことを意味している.分からぬわけではなかろう,リヴィア.主がオーヴェルに会うのならば,主はオーヴェルを殺さなければならない」
 迷い.悲しみ.悔しさ.何をもってしても逆らえない.できるのはただ,世界の気まぐれを期待することだけ.
「もし,それができなかったら?」
「全てが消える.言葉通り全てが.全ての存在が.存在した全ての記憶が.存在したそのことが全て.ただ世界が納得するまで,世界は,世界を,世界にする」
 脅迫でもなんでもない.世界の代理能力を与えられた竜という悲しき種族の,事実を告げる言葉だった.
「我から願う.リヴィア,良く考えてくれ.これで良いと主が言うのであれば,我は止めぬ.約束通り,時を捻じ曲げてオーヴェルを開放しよう.良くないのなら,そのままこの場を立ち去るが良い.海の竜の卵が返ることを期待するが,無理強いはしないことにしよう.忘れないでくれ,素直に千年の時を待てば,オーヴェルは開放される」
 リーは竜を見つめたまま黙った.ここまで来て簡単に会える機会を逃したくはない.だが,しかしその後には二度と会うことができないという条件が付く.ただ,それでも,人の身にとって千年という時は永遠に等しいものだった.
 彼女はしばらくの間ずっと考えて.そして,ゆっくりとアランの方を向く.
「アラン」
 リーの呼びかけに対して,アランは竜を見たまま,それに被せるようにして言った.
「リー,僕は君を親殺しにはしたくないよ.これは正直な僕の意見だ.だけど」
 アランはリーの方を振り返って,リーの目を見て続ける.
「僕は君が君の父さんと会うことを止められない.君が,ずっと追っていた人に会うことを,……僕は止められるはずがないんだ」
「……ありがとう」
 リーはアヴェンを抱き直して,まだすやすやと眠っているアヴェンの頬に自分の頬を摺り寄せた.
「ねえ,アヴェン.どうしましょうね……」
 呟いてから.リーはスタンリーの方を向いた.そして.
「ねえ,スタンリー.あなただったらどうする?」
 スタンリーは驚いてリーの方を振り返ったが,すぐに別のほうを向いてぶっきらぼうに答えた.
「知らん.俺が知ったことか.自分で考えることだろ」
「あなたの意見が聞きたいのよ,スタンリー.もしまだ母さんが……,あなたの妹さんが生きていて,あんな風に時を凍らされていたら.それで,今みたいに,会えるって……,殺さなきゃいけないけど,会えるんだって言われたら.……あなたなら,どうする?」
 スタンリーは,もうどうにでもなれといった具合で地面に勢い良く腰をおろした.自棄といった感じで答える.
「俺か? 俺なら会うね.時を凍らされてるんだかなんだか知らないが,千年じゃ死んでるのと同じだ.だったら,今一日だけ生き返らせてくれるって言ってるようなもんじゃねえか.違うか? くそ!」
 スタンリーは地面を拳で殴った.
「くそっ,生き返らせてくれるんだったら直ちに生き返らせてくれよ.俺だって,俺だって言いたいことはあったんだ.それでそのあとゆっくり眠ってくれるのなら,たとえそれが自分の手でだろうとも,構うものか.むしろ自分の手で眠らせてやれるのならそれでいい.もう,……もうこれ以上思い出させないでくれ!」
 まだ何度も地面を殴り続けるスタンリーを静かに眺めながら,リーは小さくごめんなさいと呟いた.
「……いいえ,ありがとう」
 リーはゆっくりと竜の方へ向き直った.そして竜に向かって,はっきりと告げた.

「お願い.会わせて」
 竜はまた首を回して,少し黙ってからリーを見据えて言った.
「わかった」
 竜がそう答えるのを確認すると,アランは竜の卵を洞窟の脇にそっと置いて戻ってきた.
「その卵は我が責任を持って海の竜の下へ返そう」
 軽く卵を視線で示し,そしてまたリーに向かって続ける.
「さて,リヴィアよ.時を進めると,空間ごと隔離される.その上で注意を言おう,よく聞くがいい.おおまかなこと二つだけだ.細かいことはわざわざ言うまでもなかろう」
 リーは頷いた.
「ひとつ.隔離された空間について我は責任を持てない.このままこの洞窟かもしれないし,都市の中かもしれないし,どこかの海岸かもしれない.どんな場所であっても,そのことは本質でないことを覚えておくがいい.そしてもうひとつ.さっきも言ったが,陽が一度回りきる前に,オーヴェルを消せ.以上だ」
「……わかったわ」
「ならば,リヴィア.独りでオーヴェルの下へ」
 言われて,リーはアヴェンをアランに預けた.
「行って来るね……アラン」
 アランは,アヴェンをしっかり抱き止めて言った.
「行ってらっしゃい.お父さんによろしく」
「そうだ,忘れていた」
 竜の声が割り込んだ.
「分かっていることと思うが,リヴィア.オーヴェルにお主がリヴィアであることを知られてはならぬことも忘れるな」
 リーは,分かっている,というように静かに頷き,アランは複雑な表情で苦笑した.
「……も,ダメなのかな,あはは」
 リーはスタンリーの方に向き直って,もう一度言う.
「行って来ます……スタンリー」
 相変わらずスタンリーはむすっとした顔でそっぽを向いていたが,しばらくして一言だけ返した.
「……行って来い」
 そしてリーはゆっくりと,時を止められたオーヴェルの下へ歩いてゆく.水晶のような不思議な固まりに手を触れると,竜が何が音を発する.
「今,会いに行くからね.お父さん……」
 世界が歪んだ.

 彼は目を覚ましたとき,何も思わなかった.一瞬自分が何者なのかも,どこにいるのかも,何をしていたのかも全て分からなかったが,分からないということも思わなかった.それが少しずつ,そんな疑問を抱くようになってくる.自分の存在は一体何なのか,どこにいるのか,何をしていたのか,そんなことを疑問に思い始める.小さな隙間から水が流れ出し,水の流れは隙間を削り広げ,やがて大きな流れとなっていくように,彼は思考を開始した.勢いを強めた思考の流れはまるで濁流のように混乱を極めた.だが彼は馬鹿ではなかった.馬鹿ではなかったのだ.残念なことに.
 記憶が戻る.竜を目の前にして千年の時間を凍らされた自らの運命を思う.またそして千年の時が経つ以外に解放の余地は無いと世界が決め,そして今自分が目を覚ましたのなら,それは紛れも無く千年という実に馬鹿げた時間が流れてしまったことを意味していた.
 世界はまだあった.千年という人にとって無情な時の流れを経ても世界はあったんだ,と,そう彼は思った.だが世界にとってそこのことがどれだけの意味があるのか,といえば,おそらく,何も無いだろう.人という存在でしかない自分の馬鹿げた感慨でしかなくて,そのことに気づいて彼は苦笑した.
 彼は身を起こした.むしろ寝ていたのか,という思いのほうが強かった.そして自分がいる状況を把握しようと努める.質素な寝台,強い日差しの入る窓,木で組まれた壁,天井.乾燥していたが暑かった.木造の小屋のようで,寝台の脇には派手な装飾の施された杖.千年の時間を経てなんにも変わっていない杖.いや,自らと一緒に千年の時を飛び越えた杖.魔道士の杖.
 彼がそれを手に取ると,奥から声が聞こえた.
「良かった,目を覚ましたのね」
 ちょうど壁で死角になっていた場所から,白い少女が姿を現して,彼は文字通り死ぬほど驚いた.それはものの見事な不意打ちだった.今まで生きていてこれほど驚いたことはない.大抵自分は冷静でいられたと思う,それでも今回は驚いた.まだ時を経て目が覚めたばかりで動揺していたのかもしれない.鮮明に悪夢が蘇り身を震わせて彼は叫んだ.
「クレアッ!?」
 少女はそれを聞いて酷く悔しそうに,悲しそうに,今にも大きく泣き喚きそうに顔を歪めた.
 ――違う.クレアじゃない.クレアなはずはない.千年の時を越え,世界は変わらないのに世界は変わって,でも,自分は異世界に放り出されたのだ.
「――大丈夫? あなた沙漠で倒れていたのよ」
 記憶にある声だなとは思った.そしてそれが誰の声なのかも分かった.喋り方も言語も,変わっていない.じゃあ,千年という時はどこへ行ったのだろう.それとも偶然にも千年の時を経て言語が変わらなかったとか,でなければ変化した上で偶然にも戻ったのだとか,そうでもないのならこの少女が偶然にも古い言葉に達者で自分の身なりをみて喋ったんだとか,まあ,いずれにせよ.世界が決めた事に関して人が反論を行うことは真に無意味で,目の前のこの少女がどれだけ自分の記憶と一致しても,それはその人物足りえなかったし,でなければその記憶と一致する人物も自分と同じ時を飛び越えてきたのだとかいうのもさっきの偶然と等しく馬鹿げた偶然でしかなかったし,もしその偶然が真だったとしてもそんなものは偶然っていうか要するに世界の気まぐれでしかなくって,だったらやっぱり自分は世界に遊ばれているだけで,何も変わりはしないのだった.
「ああ,そうかもしれない.とりあえず体のほうはなんともないよ.助けてくれてありがとう」
 もし世界がそれを許すなら,自分は嫌でも知ることになる.もし世界がそれを許さないのなら,自分はどれだけ願っても知ることはない.なるようになれ,世界よ,僕はここに運命を全うすることを誓おう.そして全て自らのやりたいようにやる.
「君は――」
 言いかけて彼は口をつぐんだ.そして悪戯を試みる子供のような笑みを浮かべた.
「いや,そうだった.名前は?」
 少女は酷く戸惑う.それは何かを探しているように見えた.見知らぬの他人に名を名乗れない立場なのか,それとも単に警戒しているのか,いいや,千年も経つと礼儀作法も違って名を名乗るのに違う礼儀があるんだったりしたらそれはそれで面白いかもね.そんなことを冗談半分に彼は考えた.
 そしてしばらくの後に少女は答えた.
「リズよ.リズと呼んで」
「そう,じゃあ,リズは信じるかい? 僕が,千年も昔の人なんだってこと――」
 彼は,世界に近い存在で千年の時を越え昔一人娘を持っていたはずのとても賢く酷く馬鹿げた少年は,本当に楽しそうに笑っていた.

「クレアッ!?」
 最悪だった.
 おおよそ,最悪,というのは最も悪いということであって,要するにこれ以上悪いことなんてないのではないか,という意味だ.ようやくにして再会を果たした父親は目の前で酷く驚いていて,とにもかくにもこんなに驚いたところを見たことがない.見たくもなかった.さらに叫んだ内容が内容だった.母親の名前.実際自分は知らないが,とりあえず母親だと聞かされた人の名前.そんなにも自分はその人に似ているのだろうか.父親に殺された顔も知らぬ人に.予想だにしなかった展開に彼女は本気で参っていた.
「――大丈夫? あなた沙漠で倒れていたのよ」
 それでも彼女は竜との約束を思い出す.捻れた時の中ではあってはいけないことを起こしてはいけない.ここでこの少年に自分がリヴィアであることを――即ち彼の娘であることを悟られてはいけないのだ.おおよそ最悪という事態において,気付かれていなかったということはせめてもの救いだったのか,でなければ,さっさと悟られて掟破りとして処分された方が幾分かマシだったのかもしれない.
「ああ,そうかもしれない.とりあえず体のほうはなんともないよ.助けてくれてありがとう」
 よもや御礼を言われるとは思っていなかった.思っていなかったが,状況からしてそう言われるのも無理はない.彼も落ち着きを取り戻したようで,良く知っている父親そっくりだった.いや,本人か.
「君は――」
 言いかけたものの,急に口をつぐんだ.そういえばよくこんなことをした.わざとなのかそうでないのか,全部をいわず中途半端に終わらせて続けてくれないことがよくあった気がする.自分にもそんな癖があるんじゃないだろうかと,彼女は心の中で苦笑するしかなかった.
「いや,そうだった.名前は?」
 ふと問われ,彼女は焦った.名前? ろくにそんなことを問われるなどと思ってもいなかった.思ってもいなかったのだが,しかしながら普通名前くらいは尋ねられるものだろう.だが素直にリヴィアだと答えるわけにもいかず,リーだと答えるわけにもいかず,適当な偽名など考えていたはずも無く,結局彼女はいい加減な名前を口走った.
「リズよ.リズと呼んで」
「そう,じゃあ,リズは信じるかい? 僕が,千年も昔の人なんだってこと――」
 信じるも何もなかった.自分はその千年という時を捻じ曲げてここに居るのだから.
「千年? 一体何の話なの?」
 そして,捻じ曲がっているからこそ,まともな受け応えなどできやしないのだった.
「うん.千年だ.竜との約束,いや,世界に刃向かった罰,かな.魔道士――そうだリズ,魔道士って,まだ,居るの?」
 どう受け応えしていいのか良く分からなかった.
「魔道士? ええ,居るわ」
 でもとりあえず,自分の杖を見せて,答えた.
「ふむ.なるほど,魔法使いは普通に居るのかな.まあとにもかくにも,僕はその魔道士だったわけさ」
 彼はそう言って,脇にあった派手な装飾の施された杖を手にとって笑った.
「でもね,僕は――あ.あんまりお喋り老人みたいになってもいけないね.まあ,君が聞きたいなら続けてもいいけど――」
「いえ,是非聞かせて欲しいわ」
 そう,是非聞きたかった.彼が何故自分の前から姿を消したのか.何故自分の前から姿を消さなければならなかったのか.リーはまだ知らないのだ.
 とりあえず彼女は近くにあった椅子を引っ張ってきて座った.
「どうぞ,続けて?」
「聞いてくれるの? ありがたいね」
 そう言って少年は笑った.とても若いのに――彼女とさして歳も変わらぬだろうに,何故かこのときばかりは少しばかり年老いていたように見えた.

 聞いてくれるの? ありがたいね.
 そう,さっきも言ったけど,僕は魔道士だった.この杖を母さんから受け継いで.いつだったかなぁ.僕にも娘ができたときだったよ.むしろ,娘を作るために受け継いだって感じだったんだけどさ,ああ,えっと.魔道士の家系とかってわかってる?
 ああ,分かってるなら話は早いや.僕はある弱った子を拾ったんだ.拾ったって言うと語弊があるかもしれないけど,多分彼女は親のいざこざに巻き込まれたんだろうね.倉庫にずっと放って置かれてたみたい.本当に弱ってた.いくら魔法でも助からないと思ったんだ.だから,魔道士の後継としての命を与えるしかないと思ったんだ.その子を助けたかったんだよ.僕はね.
 それで,僕は母さんから魔道士の杖を受け継いで,その子を後継として決めた.そして,その子を手放さないと,一人で歩けるようになるまで絶対に手を放さないと僕は僕に誓ったんだ.
 はは……でも馬鹿でね,僕は.
 そうやって誓ったと同時に,僕は僕の探究心をそのまま実行してしまった.何って,僕は魔道士としての責務を果たさなかったのさ.知ってるかい? 魔道士には世界の支柱としての役割がある.僕はその世界の支柱としての役割を果たさなかったんだよ.だから世界は,僕の時を奪うことに決めたらしい.そう,だから娘には――リーって言うんだけど.リーには悪いことをしたと思ってる.思ってるけど,それでも僕はリーを一人で歩けるようになるまで育てたつもりだよ.むしろ,一人で歩けるようになるまで世界に抗い続けた.そして僕は,世界に抗う,ということがどんなことか,それを身を持ってして実験してみた,というわけさ.
 結果はこれだけどね……でもまあ,魔道士としてというよりもむしろ魔法使いとしての研究心っていうか探究心っていうかなんていうかね.それとしては意味があったと思うよ.きっと昔にも僕みたいな馬鹿は居たはずさ.でも人の身で世界にこれだけ近づいたのは僕が初めてに違いないなんて今でも自惚れてる.どうだろう……リーは多分もう死んでしまって,もし命が続いていたとしてももう80代くらいは世代交代してるだろうけど,今リーにこの話を聞かせることができたとしたら,彼女は一体どんな反応をするんだろうね.
 馬鹿な親だって罵ってくれるかな.
 何故自分を放り出したのかと怒ってくれるかな.
 それとも――ありえないと思うけど,凄い研究をしたと褒めてくれると思う?
 分かってるよ.分かってるさ,僕は馬鹿な親だって.リーには申し訳ないことをしたと思ってる.でもきっと彼女は強く生きてくれたと思うよ.少なくとも僕はそうやって育てたつもりさ.僕の自慢の娘でね.可愛かったし,強かったし,まあ,ちょっとおっちょこちょいだった気もするけど,それでも小さい頃から上手に魔法を使ったし,それからどんどん魔法の腕を上げてった.料理も美味しかったしね.それに,そう,丁度君みたいに,綺麗な,本当に綺麗な銀髪と,真っ白な肌を持ってた.今会えたら謝らなきゃならないとも思う.精一杯抱きしめてやりたい.僕だって,どんなにかもっと傍に居てやりたいと思ったことか.でも――世界は,そう,世界は,世界だった.世界だったんだ.
 ああ,泣かないでくれ.君が泣かないでくれよ.君が泣くことないじゃないか.そんなに僕の話に感動してくれたかい? はは,ありがたいね.それにごめんね.こんな馬鹿な話を聞かせて.ほら,こっちへおいで.泣いたら可愛い顔が台無しだ.君はリーに良く似てるんだから,そんな風に泣かないで笑ってよ.
 そう,本当に良く似ているよ.だから笑った顔を見せて.
 ――ごめんね.

 知らぬうちに涙が溢れていた.泣いてはいけない,と思ったけど,そんなことで溢れる涙を止めることはできなかった.父親が自分を置いて去らなければならなかった理由を始めて知った.そして,どれほど自分を大切に,そして誇りに思ってくれていたかを知った.
「でも――世界は,そう,世界は,世界だった.世界だったんだ」
 自分は強く生きていかなければならない.ここで親殺しの名を着ても.それでも自分は強く生きていくのだと,彼女は,そう,思った.
 目元に溜まった涙が零れ落ちた.
「ああ,泣かないでくれ.君が泣かないでくれよ.君が泣くことないじゃないか.そんなに僕の話に感動してくれたかい? はは,ありがたいね.それにごめんね.こんな馬鹿な話を聞かせて.ほら,こっちへおいで.泣いたら可愛い顔が台無しだ.君はリーに良く似てるんだから,そんな風に泣かないで笑ってよ」
 彼女は父親の胸に泣きついた.もう涙が止まらなかった.なんでか良く分からなかったけど,止まらないものはどうしようもなかった.
「そう,本当に良く似ているよ.だから笑った顔を見せて」
 父親の手が優しく頭を撫でてくれて,悔しいくらい昔のことを思い出してしまった.まだ一緒に居た頃を思い出してしまった.ずるい.そんなことされたら,涙なんて止まるはずないのに.ないのに.ないのに.ないのに!
「――ごめんね」
 そして,そして彼女は,自らの手で親を殺さなければならぬ運命を心の底から力いっぱい呪った.これでもか,これでもか,これでもか,というくらい呪った.もう,世界ごと呪い壊せるんじゃないかと思うくらい呪った.
 でも世界は,世界だった.ただ世界だった.世界でしかなかった.
 せめて,陽が一度回るまでは,どうか,このままにしておいて下さい――

 そして残酷に歪んだ時は歪んだままそれでも動き,陽の動きは歪んだままそれでも一度回ることを終えようとしていた.
 目の前にいる少年は,まだしっかりと眠っていた.自分が先に寝てしまったから,もしかしたらしばらくは泣きっ放しだった自分をずっとあやしてくれていたのかもしれない.むしろ,少年が寝てしまって,あやす手が止まったから自分は目を覚ましたのかもしれなかった.
 時が歪む.
 彼女は魔道士の杖を手に取った.父親の杖を手に取った.
「気付いて……」
 多機能型の派手な装飾の施された杖.何でもこなす杖.
「お願い,気付いて,父さん.リーよ.私はあなたの娘のリーよ……」
 彼女は左手で杖を掲げた.少年は気付かない.
「お願い,気付いて,オーヴェル.リヴィアよ.私はあなたの娘のリヴィアよ……」
 彼女は杖を持つ手に右手を重ねた.オーヴェルは気付かない.
「どうして? どうして気付いてくれないの? 私はあなたを殺そうとしているのに.父さんいつだって危険にはすぐ気付いたでしょ? どうして自分の命の危険には気付いてくれないの? それでも魔法使いの端くれ? 情けないじゃない.そんなことで魔法使いが務まると思うの? そんなんじゃすぐ死んじゃうわよ.死んじゃうんだから.すぐに誰かに殺されちゃうんだからね.ねえ,だから……だから気づいてよ.お願い,気付いて……」
 それでもオーヴェルは気付かない.
「ねえ,どうして? どうして気付いてくれないの……なんで気付いて,私を親殺しと罵ってくれないの……」
 もう世界なんかどうでも良かったのに.強く生きようと思ったことなんてどうでも良かったのに.気付いて,罵ってくれて,それで全てが,悲しみも痛みも罪も嫌なことも全部消えてくれるのならそれでいいのに.それでいいのに……
 それでも,オーヴェルは気付かなかった.
「嫌ァぁあああああぁああぁあっ!!」
 金切り声の悲鳴と涙と魔道士の杖が,オーヴェルの首に向かって振り下ろされた.多機能型の杖は,ものの見事に殺人という機能までしっかりとこなした.オーヴェルの首が離れ,杖とリヴィアとリヴィアの銀色の髪は血色に染まり,力なく投げ出されたオーヴェルの腕には命を分け与えた深い深い傷跡が見え,オーヴェルの首は――本当に優しく微笑んでいた.

END.


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